目の前の山々は深い雪で覆われ、その斜面を幹と枝だけの針のような裸木が暗褐色に染めていた。小さな無人駅に立っていた。その駅から雪面を切って延びる二本の鉄路を見つめていた。紙風船を観に行こうと電車を待った西木村「松葉駅」から眺める光景は寒々としてやり切れなかった。心凍らせるような眺めだった。しかし、映画のワンシーンにでもなりそうな悲しく、美しい風景でもあった。秋田内陸線の松葉駅。10日夕、ここから電車に乗り、上桧木内の紙風船上げ会場へと脚を伸ばした。秋田市から駆けつけたshizukoさんやカトさんとその仲間たちと。もし、その人たちがいなかったら、とても一人では乗る気になれそうもない松葉駅周辺の光景だった。山々でさえも孤独で、寂し過ぎるのである。それでいながら胸を打つ眺めでもあった。
雪の山々。そして小さな無人駅。真っ白な雪面を切って、延びる二本の鉄路。雪の原っぱ。すべてが演歌にでもなりそうな風景だとも思った。「ねえ。この駅周辺をロケ地にしたら映画になりそうだよね」。そう語りかけた。カトさんも「そうだねー。こういう風景もあるんだと売り込んだらいいのに」と同調した。どんな映画が似合うだろう。川端康成の「雪国」や三浦哲郎の「忍ぶ川」の情景を思い浮かべた。どちらも雪国を舞台にした美しい小説だった。こういう風景にあの「ふうてんの寅さん」を登場させては孤独な旅人である寅さんの顔の「寂しさ」に実感がこもり過ぎて、哀愁が募るばかりだろう。哀しくて観客を笑いの渦に巻き込めない。そうも思った。
井上靖の小説に「氷壁」という作品があった。登山家と人妻との恋、そしてもう一人の若い女性を巻き込んでのラブストーリーであり、友人が登山中に転落死したのはザイルが事故によって切れたのか、それとも人妻との恋に破れた男が自らの死を望んでザイルを切ったのかをテーマとした小説だった。
高校時代に読んだもので、もうストーリーはほとんど覚えてないが、愛もないまま一夜を過ごした人妻の真意を読みきれず、その女への恋の情念を燃やし続け、苦しみもがきながら友人の山男と登山に出かけ、転落死した男の悲しさも、そしてその人妻と亡くなった友人の妹のどちらからも愛されながら、山で遭難死した男のストーリーはやるせないものの大きな感動を与えたものだった。
松葉駅で電車を待ちながら、小説を書けるような才能があったらいいだろうなと不遜な考えが浮かんだ。そのような創造力があったら、こんな風景を舞台に何か書けるのにと少し、残念な気もした。凡人の悲しさである。浮かんだストーリーは、男と女の物語だったが、考えているうちに泡のように弾けた。いや書くという作業の力仕事に敗北した。
太宰治は「小説を書くというのは、日本橋のまんなかで、素っ裸で仰向けに寝るようなもんだ」と語ったものだった。本当にそうだと思う。書くと言うことは時にはとても勇気のあることだし、恥を売ることでもある。場合によっては他人にとんでもない迷惑をかけることでもある。
小説でも随筆でも特定の人をモデルにした場合、書かれた側にはやはり困ることも多いだろう。太宰は「おれは生まれ育った家のことをあれこれと書いてお金を稼いでいる不甲斐ない生活者だ。兄貴にも迷惑のかけっぱなしだ」と嘆いたものだった。嘆きながら「書くと言うのは力仕事です。ちょうど堅い岩に斧を振るような」と名文句も残した。本当にそうだと思う。毎週、このページでは身辺雑感や思い出などを書いているが、書き終えると力仕事を終えたようにグッタリと疲れる。それでいて後から読み返してみると恥ずかしくて消え入りたくもなる。そして無力な徒労感に陥ってしまう。三浦哲郎の「忍ぶ川」は東京の小料理屋につとめる志乃という女性を主人公にした小説だった。廓(くるわ)育ちという哀しい宿命を背負った娘でもあった。勤め先の「忍ぶ川」で「私」と言う大学生と出会い、その大学生の妻となるのだが、その時の志乃を連れて雪の降る岩手の実家へ帰った時のシーンが感動的だった。
「ふるさとは、さらさらとした粉雪であった。汽車をおりて、屋根のないホームをあるいてゆくと、それが油をひいてつやつやとした志乃の髪へ、銀粉のようにふりかかった。 母は、私たちをみると『おお、おお』といった。皺くちゃの顔をほころばせ、遠くから私たちを抱くように両手をひろげて『おお、おお』といった」。
この光景が松葉駅の雪景色にピッタリだと思い返した。雪で埋まった山。どこまでも真っ白な田んぼの雪原。雪を乗せた家々の屋根。寂しいがどこか温かみを感じさせる西木村の風景だ。
この小説では2度、泣かされた。死に際を迎えた志乃の父と志乃の夫となる大学生との出会いのシーンである。住む家さえなく、神社のお堂を借りての生活と言うどん底の貧しさの中で死を迎える志乃の父。病床の父に、夫となってくれる人を見てもらいたいと必死に呼びかける志乃のひたむきさに泣いた。
「みえる?ねえ、お父さん、みえる?」
志乃は、どうでも父に私をみせたいらしく、父の胸にすがるようにして懸命に訊いた。 「ああ。みえるよ」
父は、うってかわった絶え入るような声で答えた。志乃は、こころぼそげに、身をもんだ。
「ただ、みえるって、どうみえる?ねえ、どうみえる?お父さん」
父のこけた頬が、ひくひくとうごいた。
「いい男だよ」
それきり、また瞼が重そうにたれさがり、あとは口だけが声もなく、なにごとかを語りつづけた。
「みえたんですって。いい男だなんて・・・」
志乃のこの父とのやり取りの一途さに泣かされた。
そして大学生の実家である岩手の家での結婚式を終えた晩、実家の二階の部屋から馬橇(ばそり)の鈴の音に気づいた志乃が「あたし、みたいわ」と言って裸のまま二人で一枚の丹前にくるまって、雪の夜道を進む馬橇を眺めるシーンには嫉妬心さえ抱いたものだった。
雪と馬橇、そして鈴の音。なんて美しい光景だろう。西木村の松葉駅周辺でそうしたシーンを撮影したら、きっと絵になるだろうと今、こうしてキーボードを叩きながらあの時の風景を思い浮かべている。思い返せば「忍ぶ川」も川端康成の「雪国」も舞台が雪国だからこそ描けた美しい小説だった。演歌も聞いていると北国や雪国が舞台になることが多い。「津軽海峡を渡ります」と歌うだけで哀しさが心に響いて来る。北国や雪国は悲しくも美しい恋の里、ロマンの香りがするのかもしれない。
このごろ、女性が恋しい。また悪い病気が始まったかと自分自身を恐れる。いや、もっとも恐れるかみさんの手前、静かにこの冬を過ごそう。そう思うのだが、お酒の宴の誘いがあればいそいそとつい乗ってしまう。夜の酒場で働く「志乃」のような女性を求めて、少しだけ歩いてみるのも悪くないだろう。マザコンで、美しい女性にはほとほと弱い、哀しい習性を持った自分だ。