こちら編集室「青春とは・・・」(4月12日)

 仙北の春と言えばポカポカした陽気と青空、湿原に咲くミズバショウ、そして西木村のカタクリ、角館町のサクラなど「青空と花」を連想するのだが、その青空がこのところずーっと見られない。ミズバショウを見たくて訪ねた6日の土曜日は午前中こそ雲一つない青空でとても気持ちよかったのだが、午後からは曇り出して暗い春となった。その翌日はさらに重い鉛色の雲が空一面に覆って、風は冷たく、真冬に戻ったような寒さだった。その寒さの下で来月に行われる仙北町の町長選に向けての事前取材があった。今にも降ってきそうな空を見上げ、寒さにブルブル震えた。そして翌日の月曜日も空は今にも泣きそうだった。天気はその後も曇りから時折雨、おまけに中国大陸から飛んできた黄砂まで降って、風景を黄色く霞ませた。そして今日も朝から雨である。

 3月から4月にかけてのぐずついた天候を季語では「春霖(しゅんりん)」とか「春の長雨」、あるいは「菜種梅雨(なたねづゆ)」と呼ぶとか。冬の長い間、曇り空の下で暮らしただけにせめても春はスッキリとした青空を見たいと思うのだが、晴れ間が長続きせず、毎日、雲量100%の空を見上げてはため息の日々だ。

 今、県民の注視を浴びている「宝仙湖主婦殺人事件」。被害に遭った秋田市の主婦は報道によると、単に殺されたのではなく、自殺を願望する主婦からの依頼を受けての殺人だったようだ。事件は5年前のことだが、主婦から「死にたいから」との依頼を受け、その報酬として数百万円もの現金を受け取って仲間に殺人を指示し、現在、逃走中の主犯も、また主婦を田沢湖町玉川のダム湖に投げ込んだ実行犯として逮捕された二人の男も許されないが、新聞を読んでいて「自殺願望だったとは」と複雑な気分になってしまった。ましてや亡くなった主婦は大曲市出身の方と知って、ますます気持ちも滅入る。

 報道では体調も思わしくなく、「老いていくことへ嫌悪感も抱いていたようだ」とあった。当時まだ49歳である。誰しも老いていくことへの不安はあるが、それが本当だったとしたら、亡くなった方は余りにも弱過ぎた。残された家族が気の毒である。

 黄砂で風景は霞み、太陽も霞んだ加害者は探偵業を生業とし「悩み事があったらお電話を」と電話帳に広告を出していたというが、主婦から「自殺したい」との相談を受けたら、何よりも精神的な支えとなる手だてを考えてやるのが人の道でないか。お金を貰って主婦の自殺を請け負うようなやつは許せない。自殺請負人のような男の話しを真に受けず、他に相談できる場はなかったろうか。毎日のように通っている大曲高校通りのキリスト教教会には「生きることで苦しんでいるひとたちのために」と相談受け付けの呼びかけが掲げられている。それが目につくこのごろだ。

 自殺と言えば、大曲市でもつい最近、会社経営者が経営不振を理由に自殺した。秋田県は自殺率が全国一高いとも聞いている。秋田の人を自殺に追い込むのは冬から春にかけて青空が見られない、暗い曇り空のせいもあるのではないかと思ったりする。

 しかし、冬は確かに雪で苦労し、青空も少なく気分を滅入らせるが、晴れた日の宝石を散りばめたような雪景色の美しさ、そして雪解けを迎え、青空の下、明るい草花が一斉に咲き出す秋田の春の魅力は捨て難い。畑を耕し、田んぼを耕す人たちの陽気な姿。新緑輝く山々の美しさ。その春があるから秋田で暮らせる喜びがある。

 妹尾河童の青春物語「少年H」と小松左京の「やぶれかぶれ青春記」を読んだ。どちらも少年期を戦争下で過ごした。二人とも憧れの中学に入学したとはいえ、学校でやることといえば勉強そっちのけの厳しい軍事教練と学徒動員による工場での労働ばかりだった。

 読んでいるうちに二人の作者の世界に同化してしまい「これが国家と言えるのか」と腹が立った。国家の義務である教育を放棄し、子供たちを国の宝として育てようとするのではなく、一人でも多く、一人でも早く、消耗品としての兵隊に育て、戦地に送り出そうとしたのである。国家はあの当時、国民の生命・財産を守るのではなく、その命を消耗するために存在したのである。戦前・戦争下の中学・高校生、大学生に求められた軍人精神の無謀さ、人権を無視した狂気の沙汰は知識としてはあったが、二人の書いた小説を読んだら、ますます当時の日本という国の体制の恐ろしさや残酷さに鳥肌が立つ思いだった。いや、国を挙げての官による国民への暴力に戦慄した。

 学校では軍隊から派遣された軍事教練専門の教官が生徒たちに眼を光らせ、ごく些細なミスや気に入らなかった行動や言質を捉えては、容赦なく殴る蹴ると言った暴行を加え、生徒たちに生命の危険さえ感じさせた。今なら人権蹂躙で、事件になるような行動が当時は「天皇陛下」の名を借りて自由に、しかも毎日のように繰り返されていたのである。大の大人がまだ15?6歳の少年を殴り飛ばし、凄惨な体罰を加えるのが当たり前だった。いや教官だけでなく、上級生のリンチもすさまじかったようだ。

 小松左京は「やぶれかぶれ青春記」の前書きで「編集部の注文は、大学受験期を中心とした『明朗な青春小説』というものだった。そして、それは私自身の自伝風のものであること、という条件がついている。ところが、実をいうと、この二つの条件は完全に矛盾する。私自身の青春は『明朗』どころではなかった。半分は時代のせいであり、あと半分はおそらく私自身の性格と、そのころまでうけてきた教育とのせいもあって、何とも彼(か)とも、陰惨なものだった。いま思いかえしてもぞっとする」と書く。

 小松さんにとっての青春は「生理的・精神的に大変な『疾風怒濤』の時期である。なまぐさい生が、体の内部からわき上がり、はじけ、それは屡々(しばしば)暗黒の『死』の淵にのぞんで、いっそうはげしく燃え、時には、陰惨なまでに暗く、混沌と煮えくりかえっている。子供の時のほうが、うれしい時ははじけるようにうれしく、悲しい時にはわあわあ泣き、はるかに『明朗』であるが、青春は決してそうでない。その明るさには、暗い肉のいきづかいがそい、苦痛や屈辱も、もはや手ばなしでママのひざにすがって泣くことができないため、重く屈曲して内攻し、やがてはげしい、何ものに向けられているかわからない怒りとなって沸騰し−−そういうものなのだ。青春は」と語った。

 振り返ってみると確かに自分の青春もそれほど明朗なものではなかった。むしろ苦痛や悲しみが多かった。小松さん同様、時間はあっても金がない。「あれはしてはいけない。これもしてはいけない」の制約ばかりで、逆に「したくなる」のを我慢する苦痛。上級生に「生意気だ。気合を入れてやる」と怒鳴られ、殴られた時の痛みと恐怖。女の子を前にして「いいかっこ」したくてウズウズしながらも何も出来ずに真っ赤になってしまった屈辱。そして「死にたい」と思うほどの悩み。

 偶然なのかどうか。妹尾さんも小松さんも小説の中で「自殺」に走った経緯を書いている。妹尾さんは空襲で家を失い、敗戦後は学校を改造した共同住宅に住むが、壁の隙間から食糧に飢えた隣の子どもたちが異様な眼を輝かして妹尾家の生活を覗く。そうしたプライバシーもなにもない生活と混乱に精神が病み、鉄道自殺を図ろうとする。小松さんも中学生の時に軍事教練の教官ににらまれ、こっぴどい体罰と拷問に死のうと思い詰める。大学に入ってからは思想的な事で悩み、手首を切って自殺を図ろうとする。小説から受けた二人の印象はしたたかな強さを持った人なのだが、青春とはかくも脆(もろ)く、疎(うと)く、折れやすい面も持っているんだなと共感した。

 恥ずかしいことだが、自分も高校生のころ「死ねたらいいな」と思い、手首を切った。高校にも家庭にも、そしてすべてに夢を失い、ただ死への憧れだけが膨らんだ。夜中に剃刀を取り出し、手首を切った。これで死ねるんだと土間の上がり縁に座って、たらたらと流れる真っ赤な血を見つめた。痛みもなく、ただぼんやりと手首から流れ出す血を眺めたものだった。深夜になっても土間の通路に電気が付いたままとなっている異様さに気づいた母が寝室から飛び出し、「マア。何してる!」と叫んだ。父も母の絶叫に驚いて飛び出し、血だらけとなった腕を見て「なんてバカなことを」と腰を抜かした。

 「生きていたって面白くない」。泣きながら叫んだ。「マア。ごめん。許してけれ」。母は泣いた。「マア。分かった。おれが何とかする」と父はオロオロしながらも白い包帯を探し出して母に渡した。「死ぬなんて考えたらだめだ。マア。そんなことするもんでねえ」。母は泣きながら手首を抑え、包帯を巻いた。それから家庭内でどんな話し合いが行われたのか。毎日のように親子のいがみ合いが続いていた兄夫婦は家を出た。5人家族だった我が家は、父と母と自分との3人となった。

 母は毎日、囲炉裏のそばに座って縫い物に励み、父は行商に励んだ。しかし、母を責める声も、父に怒号をぶつける声も消え、平和でのどかな幸せがあった。後を継ごうとした長男夫婦に家を出られ、「羽根をなくしたトンボのようなものだ」と嘆いた父と母を見たのは幼いころだった。長男夫婦に家を出られてから、父は悲しみを内に込め、行商に打ち込んだ。母は裁縫に専念した。

 やがて長男に代わって、父と母の面倒を見ようと家に戻った次の兄も自分が高校に入ってからは、性格がガラリと変わったように母に怒鳴り散らし、父をおどし、家の中を暗澹たる笑顔のない家庭とした。食卓に座ると苦虫をつぶしたような兄の顔から、居候でも眺めるような冷たい視線がいつも自分に注がれた。「マア、がまんしろ。反抗するなよ」。無言でいさめる父と母の眼があった。その眼はいつも悲しみで憂い、おどおどしていた。

 子どものころ、家を出た長男とは親子ほどの年齢の違いがあった。その次の兄とも10歳以上の年齢差があった。いい兄だったが、世帯を持ってからは自分たちの生活を守ろうとしたのだろう。両親の生活の面倒を見、さらに弟の分までと被害者意識が高じたのだろう。自分の学費も小遣いも父と母が細々とした稼ぎの中から出してくれたはずだが、兄の眼からはそうは見えなかったのだろう。針の筵(むしろ)に座ったような日々の高校1年生だった。自分の自殺未遂。それから兄夫婦は家を出た。父と母と3人きりの貧しい生活だったが、おどおどすることもなく平和で、快活な笑顔が家庭に戻った。青春とは暗く悲しく、辛いものだった。時間があっても金がなかった。恋しても片思いばかりだった。

 32歳で父の死を看取り、42歳で母の死を迎え、2回とも喪主を努めた葬儀の席にすぐ上の埼玉の兄、その上の横浜の兄、そして二人の姉、その片隅で自分が高校生の時に家を出たずーっと上の兄が背を丸めて座っていた。どこかに哀れさも見られ、精一杯の声をかけ、兄として迎えたつもりだった。