こちら編集室「ツバメの夫婦」(5月24日)

 毎日の散歩コースとなっている横手川の堤防で数日前、「カッコウ」の泣き声を今年、初めて聞いた。「カッコウ、カッコウ、カッコウ」と3度だけ鳴いた。遠くからの鳴き声だったから、カッコウは川向こうの樹木に止まっていたのだろう。もうカッコウが鳴く季節になったんだなと立ち止まり、耳を澄ましたが、カッコウは3度だけ、濁りのない澄みきった声で鳴いただけだった。カッコウは今年、3度だけ鳴いて初夏を告げた。見上げたら、空はその日も雲量100%の曇り空だった。肌寒い日でもあった。なぜか雨と雲の多い5月である。卯の花曇りの日々なのだ。

 ツバメもとうに飛来し、自由自在に空を飛び回っている。朝の散歩を終え、家に入ろうとするといつも2羽のツバメが、電線に止まってイヌを連れたこちらを見下ろしている。夫婦なのだろうか。寄り添ったその姿は体の大きさが違う。

 野生鳥類の中でもツバメの夫婦はとても仲が良いと聞いている。鳥たちの多くは一夫一婦制を厳守すると言うが、ツバメは同じ野鳥の中でも最も夫婦仲がよく、また子育ても大事にするという。春に南の越冬地から日本に渡ってきて、9月上旬から10月下旬までの間に2回の子育てをし、親子連れだって再び常夏の国へと戻る。そして暖かい国で冬を越し、再び春には同じ夫婦連れ立って、日本へ渡り、前の年に卵を産み、子育てをした家屋を間違うことなく見つけ、再び営巣生活をする。

 秋田おばこ毎朝、電線に止まっている二羽のツバメ。白と黒の燕尾服がとてもおしゃれだ。そのツバメ、地面すれすれに飛ぶ姿はまるで疾風のようだ。エサとなる虫を追い求めているのだろう。スーッと目の前を横切り、障害物があれば見事な勢いで上昇する。その華麗な飛翔はオリンピックで活躍する体操女子選手たちの“空の舞い”とも似ている。見事というほかはない。そのツバメを切って、剣の技を磨いたという佐々木小次郎はだから嫌いだ。

 しかし、その夫婦仲の良いツバメにも「愛別離苦」という不幸はあるようだ。これは大曲市にあった国の機関「農事試験場」に勤務し、そのかたわら大正初期から昭和初期にかけて野鳥の生態を研究し、「東洋のファーブル」と称された仁部富之助氏の「野の鳥の生態−1」から学んだものだが、どんなに仲の良いツバメの夫婦にも長旅の間には事故や病気で夫や妻と死別する例もある。仁部が観察したツバメの夫婦はその一例である。

 仁部は「ツバメの夫婦」で「昭和5年の春、一組のツバメ夫婦が初めて私の家を訪れたのは4月30日で、前年の8月に二度目の雛(ひな)が巣立ってからちょうど8カ月めである。彼らは喜々として屋内をはためき飛び、うれしげにさえずるようすは、あたかも無事帰還を喜ぶもののようであった。われわれ家族ももちろんこのわが家の前年の寄宿者と思われる彼らを喜び迎え、その無事に帰ったことを心から祝福したのである」と書く。

 しかし、良く観察してみると前年の春に観察用に付けておいた「足環」がオスの方にないのに気づく。ツバメの夫婦に離婚はないはずと不思議に思って様子を見ていたら、それから10日ほどして一羽のツバメが入ってきて先着の夫婦に執拗に襲いかかり始める。なぜ独身のツバメが、夫婦の営巣活動をじゃまするのか。略奪愛かと、不審に思って見ていたら、その独身のツバメには足環があった。

 仁部は気づく。旅の途中でオスが何らかの理由で行方不明となり、寡婦となったツバメは夫は亡くなったものと諦め、仕方なく後添いを貰い、夫婦の契りを交わし、秋田の空へと帰ったものと。そして愛の巣を作り、新しい生活を始めた。そこへ旅の途中で妻とはぐれ、探しても探しても会えず、かつての愛の巣に戻ったら再会を果たせるのではないかと希望を捨てず、必死で帰ってきた元の夫ツバメ。しかし、帰ってみたら妻は新しい夫と世帯を持ち、昨年、自分たちで作った愛の巣で生活を始めていたのだ。元夫にとってこれほど残酷で、耐え難いことはなかったろう。妻の裏切りに逆上した元夫は「許されない」と必死になって巣を襲い、営巣活動のじゃまをしはじめたのである。

 死んだものと諦めていた夫が生きて帰ってきた。妻は驚いたろうが、すでに新しい子を産むための準備が始まってしまった。元夫には申し訳ないが、母として子どもを守り、育てる義務もある。メスのツバメは襲いかかる元夫のツバメをその母性本能をかき立てて追い出し、諦めてもらいたいと必死で抵抗する。元夫のツバメが妻の逆襲を受けて、やっと諦めて姿を消すまでに6日間もかかったと仁部は記している。6日間の死闘を繰り返したのである。人の世も鳥の世界も似た者だと「野の鳥の生態」を読んでひどく感動した。感動というよりも、夫ツバメの哀れさが悲しかった。

 さてツバメ夫婦の仲の良さはともかく、19日夜に放映されたNHKの大河ドラマ「利家とまつ」の「幸の婿どの」には笑ってしまった。熱心に観ている番組ではないから、ストーリーは良く分からないが、19日の「幸の婿どの」は前田利家の娘・幸と相思相愛となった若者が前田家の婿となり、めでたく結婚式を挙げることになった。その式を祝うため戦場から駆け戻った父の利家は、可愛い娘婿となる若者の前で得意の槍を手に踊る。そして勢い良くその槍を若者の前に降り下ろし、「何か言うことはないか」と婿どのに「言葉」を求める。「可愛い娘をお前にやるんだ。何か言って見ろ」と迫るのである。そこまではいい。

 その義父の求めに応じた婿どののおっしゃった言葉の「陳腐さ」にはただ、笑うしかなかった。正確には覚えてないが、婿どのの答えは「決して浮気はしないから」だった。生死をかけて戦うことを生業とした当時のサムライが、妻を前にしてそんな甘い言葉を吐けるだろうか。「武士道とは死ぬことと見つけたり」と常に死を見つめ、厳しく自分を戒めたのが武士(もののふ)たちである。それが妻とその父に述べた誓いの言葉が「決して浮気はしないから」では時代劇としては甘過ぎるし、時代をどこか錯誤しているようで気になった。気になるよりも噴飯、そのものだった。

 利家の仕える織田信長の場合はいかにも信長らしい凛々しさと猛々しいセリフで視聴者を引きつけるが、利家の娘婿どのには現代の弱々しいサラリーマンだって恥ずかしくて口にしないような「浮気はしないから」をセリフとして使わせ、夫婦の契りを誓わせる。かりそめにも前田利家は歴史上の人物である。加賀百万石の基礎を樹立した大大名である。その利家を主人公にした歴史ドラマであるなら、映像にいくらリアリズムを求めても、言葉、セリフが軽佻浮薄となっては台無しである。

 ドラマそのものは歴史の流れに則って作られ、一方では聞いている方が恥ずかしくて、体のどこかがかゆくなるような甘い言葉を平気で武士たるものに使わせるようでは、歴史そのものをゆがませてしまうのではないか。子どものころは近くの映画館に行って、良く時代劇映画も見たものである。映画はさすがに良くしたもので、将軍は将軍らしい貫祿と美、そして遣う言葉、言い回しにも重みがあった。一方では市井の庶民たち、つまり江戸っ子の言葉にはそれなりの活気があった。そうした映像と言葉に接し、自分たちは時代劇を楽しみ、歴史を学んだ。

 「利家とまつ」の脚本を書いた方はどなたか知らないが、あのような大事な場面であのような迷?セリフを吐かせるようではドラマはただ面白くあればいいと考えるだけで、歴史的配慮、教育的配慮に欠けた人かもしれない。

 戦後、強くなったのは女性で、弱くなったのは男性だと言う批評を良く聞かされる。男性の幼児化と言うことも指摘される。30代、40代の男性が子どものころにテレビドラマで活躍した「仮面ライダー」などのキャラクターを嬉々として買い求める時代だ。大人になりきれない男性が多いのだ。自分もその一人と自覚しているが、少なくても時代劇を飾るサムライにまでそのような大人になりきれない大人は演じさせてはもらいたくない。 いつも電線の上からイヌ連れの自分を眺めるツバメの夫婦。そのツバメのつがいを見上げながら、彼らには「浮気はしないから」などという言葉は無縁だろうなと思った。電線の上で寄り添う二羽のツバメ。その仲むつまじさを見つめ、彼らに「愛別離苦」の悲しみがないよう祈った。