日曜日の夕方だった。妻の携帯電話にメールが入った。友だちからのようで携帯を手にした妻が「アラッ。○○さん、五能線に乗ってるんだって。マア、見てみて」とはしゃいだ。そのメールには「ただいま五能線の車内。日本海に沈む夕日が素敵です」とあった。自分たちが「五能線」に乗って日本海の夕日を堪能したのは4月だった。あれからもう2カ月も経ったのかと時の流れの早さに思いを馳せながら、「こちらは曇っていても日本海は天気が良かったんだ。五能線は何と言っても夕日だから、観れて良かったじゃないか」と答えた。日曜日の日中は晴だったが、やはり梅雨である。夕方には雨となっていた。
しかし、その雨もいつの間にか止んで、居間に面した南側の窓から外を見ると雨上がり特有の澄みきった空気にオレンジ色の光りが射し込み、風景全体がその光りで黄金色に彩られ、立体的に浮き上がっていた。台所に立っていた妻に「オーイ。夕日が出てるみたいだよ」と呼びかけた。「どれどれ」。エプロンの裾で手を拭きながら居間に入ってきた妻は「アーッ。すごい。夕日になってる。どっかに行って夕日を観てみようよ」と言い出した。わが家は外に出ても周辺の家並みで視界がさえぎられているため、夕日を観るには雄物川の堤防に立つしかない。車に乗って雄物川へと走った。
遠くの西山をシルエットに染めた太陽はまだ高い位置にあったが、空は次第に夕焼けで薄紅色に染まっていた。妻は「エー。八圭にもこんな所があるの。知らなかった」と雄物川沿いの堤防に立って西山を眺め、赤く染まり出した太陽をまぶしそうに手でかざした。「ここに住んでもう30年にもなるのにこんな広々とした所があるなんて知らなかった」とまたつぶやき「ここなら夕日を眺めるのが一番ね」と喜んだ。
雄物川を隔てた西山の麓が妻の実家で、雄物川を超えてわが家に移り住んで30年以上にもなるのに西山が眺められる雄物川に連れて来なかったのも不思議だと思った。だが、連れてきたとしてもそこは単なる河川敷であり、堤防と砂利取り現場の荒涼とした眺めをみせてもしょうがなかった。ただ自分にとっては子どものころ、水泳を楽しんだ思い出の河川であり、川魚で生計を立てていた父が最も愛着した川だった。
子どものころ、父は川がすべてと言っていいほど川で過ごした。川舟と漁網を持っていて、毎日のように川に通った。暗くなっても帰って来ないと母が「マア。トウ(父)を呼んできてけれ」と心配した。家から歩いて10分もかからない距離だったが、子どもにとっては遠い距離に感じられたものだった。そのころはまだ堤防もなく、県道から小路に入って畑の中の道を真っ直ぐに歩くとすぐに河川敷に出た。
父を迎えに行った川は夕日が落ちた後だけに浅い夜の底で、黒い帯のように見えた。西山にはまだ残照があって、波立つ川面(かわも)は時折、銀色に光ったが、夜の闇にとけ込もうとしている川の流れはすべてを飲み込みそうな不気味さをたたえていた。水の音も静寂のせいか、異様に響いた。「トウー。トウー」。父の姿は見えず、岸辺で何度も叫んだ。しばらくして、中州を隔てたはるか向こうから舟に乗った黒い小さな影が見えた。棹を手に器用に舟を操って川を登って来るのはやはり父だと思った。「トウー。トウー」。声に弾みがついた。「オー。マーか。今、行くからナー」。父の声には優しさがあった。どこかのんびりした包容力があった。
八圭の西側を流れる雄物川は小学生のころ父を迎えに行った川であり、夏休みに入ると毎日のように泳ぎに行った場であった。秋の豆名月や栗名月になると父と連れ立ってススキを採りに行った河川敷であり、一人で夕日を眺めに行った場でもあった。狭いがグラウンドもあった。グローブを買ってもらった八圭の子どもたちはそのグラウンドで野球の練習もした。グローブなんて欲しくても、家の貧しさを知っていた自分は買って欲しいとは言えず、ただ仲間たちが野球の練習に興じる姿をうらやましく眺めただけだった。野球の練習を観ていてもグローブを持ってない自分はいつまで経っても仲間に入れてもらえず、詰まらない思いをしながら一人で帰った場でもあった。
そのグラウンドは模型飛行機の大会が開かれた場でもあった。木製の組立式でゴムを巻き上げ、その回転するエネルギーでプロペラを回す飛行機だった。八圭にあった一軒だけのラジオ屋が主催した飛行機大会には自分も参加できた。大した金額でなかったのか、飛行機が欲しいと父にねだったら買ってくれた。兄に手伝ってもらって設計図と照らし合わせながら、組み立ててもらった飛行機はとても良く飛んだ。空中を何秒飛んでいるかを競争する飛行機大会だった。やっと仲間入り出来ると大喜びで走った河川敷のグラウンドだった。飛行機は本当に良く飛んだ。飛行機を販売していたラジオ屋のオジさんは痩せた体で「伊藤さんのは良く飛ぶね」と褒めた。細い目をしたあの優しい笑顔は、今でも鮮明に覚えている。その人は子どもでさえも「サンづけ」で呼ぶ人だった。
高校生になって初めて女の子とデートすることになり、連れて行った川でもあった。その人はデートの日、平鹿郡内の町からバスでやってきた。こちらが2年生で相手は3年生だった。大森町の公園に仲間と花見に行って知り合った。何度か文通を交わし、初めてのデートとなった。
「女の子と会うんだ」と父と母に報告したら、母は「オヤ、マーが今日はデートか」と顔中をしわだらけにして冷やかした。「マアもそんな年ごろになったか」と幸せそうに笑顔を崩した。父は心配だったのか「その村の人たちはみんな大きな百姓さんだからなー」と顔を曇らせ、「きっと金持ちの娘だろうから、マアに恥をかかせられないな」と当時では信じられないような金額を小遣いとして渡した。父は女の子に会うのにお金で困るようなことはさせたくないと思ったのだろう。
近くのバス停で平鹿郡の方から走って来るバスを待った。バスに乗ったら、その人が一番奥の席に座っていた。野菊のような清楚さがあった。少しだけ笑顔で応え、「どうぞ」と座席を勧めた。こちらも笑顔を見せるつもりだったが、緊張してたせいか怒っているような声で「アア」とうなずいてしまった。大曲の街に入ってもどこを案内したらいいのかさえ分からず、当時のタカヤナギデパートの屋上で黙って過ごした。相手を笑わせることも、喜ばすことも、褒めることも知らなかった。初めてのデートでその人に自分が与えたのは多分、“退屈”という詰まらないプレゼントだったろう。
帰りのバスも一緒に乗った。そして自分の家の近くのバス停の直前で「ちょっと降りて歩いてみないか」と誘った。その人はためらいながらもバスを降りた。小さいころの遊び場であった雄物川を歩いてみたかった。川と葦(よし)の原っぱだけの殺風景な風景だったが、どうしてもその人と歩いてみたかった。そこでどんなことを話したものか。多分、再び彼女に与えたのは詰まらない時間の流れだったろう。でもこちらは二人で歩いた河川敷はとても充実した幸せな時間だった。「女の子と本当に歩いてるんだ」と胸が熱くなるほどだった。そして彼女のためにその日は、一生懸命、優しく尽くそうと夢中だった。だが、言葉がどうしても出なかった。彼女を喜ばせ、笑わせる言葉がどうしても見つからなかった。
次のバス時間が来てバス停で見送った。バスに乗ったその子は「サヨウナラ」と小さな声でささやき、作ったような笑顔で手を振った。それから数日して届いた手紙には「もう二人きりで会うのは止しましょうね」だった。グサリと胸に突き刺さる文字だった。思い出の川は高校生になって初めて恋し、悲しみを味わった川でもあった。
「アーッ。夕日が落ちていく」。妻が西山を一心に眺めながら感動したような声を挙げた。「マア。あの太陽は世界に一つしかないんだよね」と妻は不思議と言えば不思議、幼稚と言えば幼稚な言葉を発した。多分、世界に一つしかない太陽が今この瞬間、自分たちのためだけに輝いているんだと言いたかったのだろう。太陽は真紅に燃えて、ユックリ、ユックリと山に沈んで行った。茜色に焼けた雲が次第に紫色に染まった。午後7時ちょうどだった。思い出の川は小学生の時、父を迎えに行ったあの時のように黒い帯のような色に変わった。
*ケンニチは明日22日から23日まで、同級会のため上京することになり留守となります。メールなどの返事は24日以降とさせて下さい。