こちら編集室「東京の夜」(6月28日)

 秋田新幹線「こまち」が角館駅を通過した時点で荷物をまとめてデッキに立った。東向きの窓からは丸い大きな月が出ていた。雲の切れ間から輝く月を見て、「ああ。大曲に帰ったな」とホッとした。東京で見る月も大曲で見る月も変わるはずはないのだが、大曲で見る月はどこか親しみが持てて「やっぱり秋田の月だよ」と慈しみを込めて眺めた。

 東京で開かれた中学時代の同級会だった。5年前は宮城県の秋保温泉で開いたが、今回は東京在住の同級生も集まりやすいようにと場所を移した。地元からは13人が上京し、東京駅で東京やその近辺の在住者8人と合流した。そして「はとバス」に乗車し、皇居前広場を散策、NHKスタジオパークを見学し、お台場を歩いた。21人の団体はどこへ行っても誰一人離れることなく同一行動だった。歩き疲れて遅れる者があれば振り返って追いつくのを待ち、声を掛け合った。みんな思いやりの心を大事にした行動だった。「いつからみんな、こんなにも仲が良くなったのだろう」。参加した21人の和気あいあいとしたムードに浸りながら遠い昔に思いを馳せた。

 中学時代の同級生は91人いたと列車内で仲間から聞いた。「良く覚えているねー」。感心しながら話を聞いていると、その人は「そのうち病気や事故で亡くなったのが6人もいるんだ」と顔を曇らせた。そう言えば、6人のうち葬儀に行ったのは2人だけだったなと思い返した。15歳で中学を卒業し、それから40年と言う長い人生を過ごした。気の毒だが、病気で亡くなる人もいれば、思わぬ事故に遭って亡くなる人もいるだろう。自分だってたまたま運良く今日まで生きたが、明日は誰だって予測が着かない。そんなことを思いながら、亡くなった同級生を偲んだら、その人たちの顔がぼんやりと目に浮かんできた。6人全員の顔ではなかったが、なぜか亡くなった人たちの顔は大人の顔ではなく、中学時代の少年・少女の顔のままだった。

 91人もいたから、全員が仲良しのグループではなかった。ケンカした相手もいた。意地悪で、心底嫌なやつだと思った人もいた。近づくと虫けらのように忌み嫌う行動を取る人もいた。だから中学を卒業した時は「もう。あの連中とは顔を会わせる必要もないナ」とホッとしたこともあった。逆に「もう会えないのか」と寂しく思った人もいた。

 お台場の眺め当時は中学を卒業すると就職するのが当たり前の時代で、半数近くが“集団就職列車”に乗って上京した。就職することに心底喜びを感じた同級生もいれば、高校への進学に未練を残しながら、上京しなければならない気の毒な仲間もいた。卒業間近になると就職組は進学組に向かって白けた態度を取るようになり、反目したこともあった。自棄っぱちになって教室のドアを壊す人もいた。その気持ちが痛いほど分かるので、何も言わずに見守ったものだった。どちらかと言うとグループ行動が苦手な自分は、91人もいた同級生の中で孤立した方だった。

 うらみほどではないが、「嫌なやつ」と決めつけていた意識が次第に薄れ、本当にいい仲間なんだと思えるようになったのは42歳の「厄年」での同級会だった。地元にいる仲間みんなが力を合わせ神社に奉納する「ぼんでん」を作り、女たちは女たちでせっせと細かい仕事を手伝った時だった。そして2月に県内外に住んでいる同級生も迎え、早朝から仲間の家を一軒一軒回ってぼんでんを掲げ、歌い、夕方には神社に奉納、その疲れを押したまま盛大に宴会を開いた時だった。この時はどのくらいの同級生が集まったろうか。卒業間近になってから目に余るほど荒れた同級生も驚くほどみんなに思いやりを見せたし、いたわりを見せた。「ああ。俺たち同級生はこんなにもいい仲だったんだ」としみじみ思い、感動したものだった。

 今回の55歳の同級会。参加者は21人と少なかったが、再び、「いい仲間なんだ」と心底、誇れる集いだった。旅行のスケジュールを数カ月前から企画し、列車の切符の手配から同級生への連絡や案内書の発送、会費集めと何から何まで手配してくれた幹事、会計ら役員たちのご苦労は大変だったと思う。その気苦労をひと言もぼやかず、車内でもあれこれと気配りしてくれた藤井勝三君、伊藤博君、高橋嘉余子さんには心からお礼を述べたい。車内で飲んだ缶ビール、ご馳走になったお握り。本当に美味しかった。同級生の温かさがこもっていた。

 はとバスから降り、皇居前を歩いたのは中学校の修学旅行以来だったろうか。いや大人になって、一度だけ妻と歩いた記憶がある。五葉松を中心とした皇居前の庭はさすがに手入れも良く、東京にはこんなにも素敵な美しい広場があるのかと感心した。警備の警察官の多さにはやや辟易したが、皇居前のきれいに整備された広場の緑を見ながら「東京に緑がないなんて嘘だね。こんなにも豊かな緑、森があるんだもの。秋田には緑はあってもそれはこんな森ではなく、林だよね」と側にいた同級生に少しばかり東京への妬みもこめてささやいた。「ウン。そうだよな」。同級生も同じ気持ちだったようで、ウンとばかり頷いたが「だけど秋田は自然のままだから。こんな人工的な緑なんてどうってことないよ」と言い返してきた。その通りだと思った。秋田の緑は手入れはされてないが、自然のままの生きた姿があると胸を張った。二重橋を背景に記念写真を撮った。中学時代にも同じ場所で記念写真を撮った記憶があるが、その時の写真はどうなったろう。あればいいなと、昔の写真が無性に見たくなった。

 バスは神宮外苑、迎賓館前、銀座と走り、お台場で自由行動となった。1時間半の自由行動だったが、ここでも21人はどこへ行くにも集団行動だった。結局はフジテレビのビルにある球形展望台に昇るしかなかったが、歩きながら「あいつはどうしてる」「良子はどこにいる」「孝一はどうなった」と参加しなかった同級生の消息を訪ねながら、「そうか。元気でやってるか」と安心したり、病気で寝込んでいるとの話を聞けば「そうか。気の毒に」と心底同情した。中心になって同級会をまとめた幹事たちは一人ひとりの同級生の様子を事細かに情報を取り寄せ、頭に入れているのだ。

 宿は品川プリンスホテルだった。そしてそこから歩いて屋形船での夕食というコースだった。東京湾から夜の東京を眺め、お酒を飲もうという趣向だった。「船清」の船に乗って夕方の東京を海から眺めた。船は少し揺れたが船の中の座敷に座って、まばゆいばかりに輝く大都会のビルの光りを眺めながらの宴は誰もが喜んだ。「幹事長、ありがとう」。そんなお礼の言葉も飛んだ。「マサオさん。久しぶりね」。向き合わせた同級生の女の子の笑顔と声が優しかった。ビールで乾杯し、話が弾んだ。1、2年生の時の担任の先生、3年生の時の担任の先生、4年生、5年生、6年生と担任の先生たちの顔がぼんやりと浮かんでは消えた。
 怖い先生もいた。優しい先生もいた。子どもながらもきれいと思える女先生もいた。いつもニコニコしている男先生もいた。「あの先生には今も会いたい」。そう言って涙ぐむ同級生の女の子もいた。小学校を5年まで過ごし、父の仕事の関係で転校した女性は「私にとっての母校は藤木小学校しかないの。そしてあなたたちだけが私の同級生なの」と子どものような目を見せた。

 次から次へと天ぷら料理が運ばれて来る。しかし、男たちはジッとしていられず次から次へと東京から参加した女性たちを回って「オイ。来て来れて良かったよ。ありがとう。元気そうだな」と手を握り合った。「アヤー。○○さん。おめだば全然、変わってないねー」と標準語と秋田弁混じりの言葉を交わして、お互いが子どもに返った。屋形船での宴会は2時間ほどで終わったが、圧巻だったのはホテルに入ってからだった。与えられた部屋はみなシングルだったが、女性のリーダー格とも言える人が「私の部屋にみんな集まって」と呼びかけた。シングルの狭い個室に21人全員がギュウギュウ詰めとなった。男も女もなかった。子どものころと同じように名前を呼び捨てにし、「ああ。ンダンダ。あった。そんなことあったけナ」と遠い40年も昔を偲んだ。同級会っていいものだとしみじみ思った。今度は60歳の還暦に再会しようとシングルの狭い部屋で揉み合うような姿で誓い合った。

 同級会名簿を手にしたら北海道で暮らしている人もいる。横浜、大阪、さらには愛媛県という遠い所に落ち着いた人もいる。石川県、新潟県長岡市の人もいた。参加はしなかったが、みんなそれぞれの場で一生懸命生きているのだろう。リストラで同級会どころでないと長引く不況にあえぐ声も聞いたが、集まった人たちの顔を見て、同級生っていいものだと感動した。そう思えた東京の夜だった。