「今年11月、田沢湖に行きます」、秋吉さんが応えてくれた。
世界的な天才ジャズピアニストであり作曲家として有名な、秋吉敏子さんの演奏会が開催された、先週6月26日の夜のことである。ハリウッドにあるレストランで、記念撮影の為、ディナー付き演奏会に集った200人近い出席者の各テーブルを周られた秋吉さんが、私たち夫婦のテーブルに来られた時だった。私の隣に立たれた秋吉さんに「私は秋田県出身です。秋吉さんが毎年のように田沢湖でライブ演奏されて下さっているのを誇りに思っています」と話しかけた折、秋吉さんが「また田沢湖に行きます」と言って下さったのだ。
ロス在住の秋吉さん大ファンの日系人の方々が企画して、再び3年ぶりの演奏会となった今回の「ハリウッド・ナイト」(チケットは約7500円)。ロスの日系テレビでも放映されたほど注目された、この演奏会の企画に関わった知人の好意で招待された私たちは、本当にラッキーだった。
それにしても、“99年に国際ジャズ名誉の殿堂入りを果たし、15回もグラミー賞候補にあがった、日本ジャズ界の巨星秋吉敏子さん”を、毎年のようにこれまで5回も迎えている田沢湖町を何と表現したらいいのだろう。田沢湖町に住んでいる妹が羨ましくなってきた。「北浦郷」という地域の新聞に秋吉さんはインタビューを受けられたこともあると聞いた。
46年前にアメリカに渡り、幾度もの挫折と悪戦苦闘を経験。ジャズ界で東洋人というハンディに苦しみながら、遂には自分が「東洋人」であり「日本人」であるということに「誇りと特徴」を見出し、決定的な評価をアメリカで勝ち取った秋吉さんの語り口は、とても柔らかく、謙虚で心を打たれるものだった。「私も72歳です」と言われながら、30年以上連れそうサックス奏者のご主人のルー・タバキン氏に感謝の言葉を表す秋吉さん。これまでの恩師の方々との出会い、試練の数々を慈しむように話され、味わい深い彼女の人生を、ピアノ演奏から汲み取った。心から感動した。
昨年の8月6日、原爆投下があったこの日。秋吉さんは広島でオーケストラを伴なってコンサートを開催されている。ここで演奏された曲が作曲された背景を紹介してくれた。広島のある方から、広島のために曲を作って欲しいという依頼があった時に、資料として原爆投下から3日目に撮られた写真集が秋吉さんのもとに届けられた。
「あまりの悲惨さに声も出なかった。胸がつぶれるような写真の数々に作曲は無理だと思ったのです。でも、時間をかけ一枚一枚勇気をもって見なおしました。そして3回目の時、一枚の写真に写っている女性の眼差しを発見したのです。彼女は、被爆から免れた避難所から、空を見上げていました。その見上げている彼女の視線に、希望を感じたのです。そうだ、絶対的絶望と見える現実が横たわっていても希望を失ってはいけない。明日がある。それを曲のメッセージにしよう」
こうして「ヒロシマーそして終焉から」という曲が完成。8月6日に演奏されたこの曲の最終章が「希望」。廃墟の中から再び歩み始める人類を表現しているそうだ。「現在も世界は大変な問題を抱えているけれど、平和に向かって、たとえ叶わないかもしれないけれど、平和を信じて頑張りましょう」と、秋吉さんは締めくくられた。
日韓共催のW杯も大成功に6月30日に締めくくられた。近くて遠い国という関係だった韓国と日本が、近くて近い国になった。胸一杯に嬉しさが広がる。秋吉さんのジャパン・ナイトに集まった日系アメリカ人たちの中で、韓国人は主人ひとり。私たち夫婦を招待してくれた知人と大変親しい間柄の、河野ロスアンジェルス日本総領事は、ディナーが終わり秋吉さんの演奏が始まる前の短時間、主人の隣に座って下さった。韓国通でもある総領事は、W杯の韓国チームを絶賛しながら楽しい話題を主人に提供して下さった。主人は、きっとハリウッドでのジャパン・ナイトを一生忘れないだろう。
吉幾三の「雪国」、北島三郎の「与作」「北の大地」などのド演歌、またはテレサテンの「愛人」「つぐない」などの不倫系を好んで聞いてきた私。歌っている私。今回はジャズに触れ感動し、自分の新境地を開ける感じを味わっている。都会的で洗練された大人のイメージをねらえる可能性が自分にも感じられ、更に我が人生もワクワクしている。日・米・韓の絆が強く結ばれたジャパン・ナイトは、実にエキサイティングだった。