こちら編集室「新・平家物語」(7月19日)

 雨の日々が続いている。梅雨だから仕方ないとしても、3日も4日も雨が続くとさすがに滅入ってしまう。その雨が降ってから車の中にこうもり傘がないのに気づいた。まだ自転車が足代わりだった昔は傘は手放せない必需品だったが、車に乗り出すようになってからなぜか傘をなくす癖がついてしまった。雨が降っている時は当然、忘れることはないのだが、晴れてしまうと傘のことはプッツンと念頭から離れてしまう。傘を無くしたのはこれでもう何本目になるだろう。「あなたにはもうこうもり傘なんか買ってあげない」。妻はその都度、おかんむりである。傘を買い換える度に妻は大きく自分の名前と住所、会社名までマジックで書き込んで、気づいた人がいたら届けて貰うのを期待するが、ただの一本も返ったためしはない。他人の善意を期待しても無理なのだ。忘れた自分が悪いのである。

 傘を無くしてもなぜか自分で買う気になれず、仕方なく雨の日は自宅の傘入れに眠っている骨の折れた傘を手に歩く。その見すぼらしさを見かねてか、妻はいつの間にか新しい傘を買い求め、「もうこれは絶対なくさないでね。高かったんだから」と念を押しては手渡す。そのこうもり傘をまたなくしてしまった。会社にあるはず、いや市役所に置いたはず、あるいは食堂に置いたかもしれないと心当たりを探し歩いた。しかし、見つからなかった。もしかすればと思いついて図書館に走った。こうもり傘はそこにあった。傘置き場に差し込んだままだった。これで今回は怒られずに済むとホッとした。

 写真は大曲市角間川町の浜倉前で撮影そのこうもり傘を差しながら雨の中を歩いた。雨は嫌だが、なぜか傘を差して街を歩くとうきうきした気分になる。こうもり傘の絵柄が楽しくさせるのかもしれない。男性用の傘だからそれほど派手な柄ではないが、紺と緑と青、それに茶系の色のチェックの絵柄は何となくおしゃれに見える。その絵柄が雨のうっとうしさを吹き飛ばしてくれるのかもしれない。

 左手にこうもり傘、その脇の下に吉川英治の「新・平家物語」を挟んでいつもの食堂に入った。ざるそばを注文しながら平家物語に目を通した。吉川英治の小説を読むのは高校以来のことだ。高校生のころはよく「宮本武蔵」を読み返したものだった。恋を知って苦しみ、辛かった時にむさぼるように「武蔵」の生きざまの男らしさを学び、心の支えとした。反面教師となったのは武蔵の幼友だちの「又八」だった。又八には許嫁の「お通」がいた。又八はそのお通を捨てた。一方のお通は武蔵の男らしさに心底惹かれ、深い愛情を抱く。そのお通に横恋慕を抱いてお通を追い求める又八。ついにはお通に「なんて女々しい男か」と断じられる。その又八の姿を通して、せめても「女々しい男」とだけは言われないようにしようと誓ったものだった。

 どうしたら武蔵のように強く生きれるものか。どうしたら武蔵のように潔くいきれるものか。どうしたら武蔵のように孤独につよく、自己緊縛する力をもてるものかとむさぼるように吉川英治の「宮本武蔵」を読み返したものだった。いつのまにか武蔵は人生の教師となり、又八は反面教師となった。武蔵は憧れの存在だった。宮本武蔵シリーズとして映画化されるとその映画も欠かさずに観に行ったものだった。

 吉川英治の小説でほかに読んだのは「新書・太閤記」だった。これも人生に夢を与え、夢中になれた。日吉丸という無名の小僧が織田信長に拾われ、武将として出世し、最後は豊臣秀吉と言う歴史の人物へと出世していく物語は痛快だった。しかし、平清盛を主人公とした「新・平家物語」はなぜか読む気になれなかった。

 多分、清盛という人物が好きになれなかったせいだろう。平清盛と言えば極悪人とのイメージがあったからだ。多分、小さいころから漫画や絵本で慣れ親しんだ悲劇の英雄・源義経へのひいきがあったせいだろう。源氏は正義であり、庶民を苦しめた平氏は〃悪〃と決め込んでいた。

 その「新・平家物語」を読んでみようと思ったのはほかならぬアメリカの岩間さんからの便りがきっかけだった。岩間さんも「新・平家物語」を読むことにしましたと書いてあって、それに触発された。吉川英治の「新・平家物語」は「宮本武蔵」の全3巻どころか全6巻という大変な長編である。しかし、読んでみると面白い。夢中にさせる内容だ。さすが国民的作家・吉川英治だと思った。

 どこが面白いかと言うとまず登場人物の会話の巧みさである。それに表現力の宝庫であることも面白さを盛り上げる。藤原家全盛の平安時代の物語だから、登場人物の会話はどこか古典的だが、吉川英治は巧みな会話の手法を使って、当時の世相を現代によみがえらせる。吉川英治がつむぎ出す言葉、表現力の豊かさは、新聞記者と言う職業柄、とても刺激にもなる。文章力を養ういい勉強にもなるのだ。忘れていた言葉、表現力を思い出させるいい見本にもなる。

 例えば〃狷介(けんかい)〃や〃懶惰(らんだ)〃、〃吝嗇(りんしょく)〃、〃佞奸(ねいかん)〃などなど忘れていた言葉が次々と登場する。もちろんこうした表現は難解なため新聞記事にはふさわしくない。しかし、言葉の勉強にはなる。清盛の父は忠盛で、母は藤原一門の公卿(くげ)を親類に持つ泰子である。だが、泰子が産み落とした清盛の本当の父は、泰子の愛人だった白河上皇とか、その泰子を犯した悪僧だったとかの風評を友人から聞かされて清盛は「おれの本当の父親は誰なのか」と悩む。娘たちを出世の道具として献上することが当たり前の時代だった。そうしたことから清盛は母の過去をめぐって成人してから〃悩乱〃する。その過ちの元となった貴族生活を吉川英治は「優雅と繊細を極めた平安朝芸術にくるまれた貴族生活の〃陰影の美〃が自然に宿す黴(かび)の一つというほかはない」と記した。

 こうした見事な表現力はさすがであり、国民的作家の面目躍如と言えよう。まだほんの触り程度しか読み進めていない「新・平家物語」だが、読んでみると吉川英治は清盛をとても魅力的な男に仕上げている。正義感が強く、潔癖で、潔い。中々、好感のもてる武将なのだ。

 清盛が義弟と郎党を守るため、天皇さえも恐れおののいた荒法師たちの担ぐ神輿(みこし)振りに向かって矢を放つ話は有名だ。こちらはやっとその下りまで読み進めたばかりだが、痛快しごくなストーリーは胸をなで下ろす。

 外は相変わらずの雨だ。そしてここしばらく心の中にも雨が降っていた。そうした時に慰めになったのはいつも本だった。夢中になれる小説が見つかれば、いつもそれに没頭した。小説の世界に浸ることで懊悩を忘れることができた。いま又、そうした本が見つかった。当分は、吉川英治の「新・平家物語」の世界に没頭したい。