自分の〃傘置き忘れ症候群〃という物忘れ病はアメリカにまで評判となって届いてしまったようだ。メリーランド州在住で5月末に平鹿町の実家に里帰りした際にお会いした俊子・ポランスキーさんからまで「伊藤さん。もう傘をなくしちゃダメよ!」とのメールをいただいた。「うん。気をつけるよ」とそのメールを読みながら素直にうなずきたかったのだが、既に傘は喪失してしまい、後の祭だった。
県立大曲養護学校であった「七夕花火会」を19日夕、取材に行った。同校では全員ではないが、知的障害を持つ子どもたちが親元を離れ、寄宿舎生活をしている。その子どもたちが花火を通じて地域の人たちや保護者との交流を深めようと毎年開いているのが「花火会」。その取材に行ったら雨となって、車から持ち出した傘が誰かに持っていかれてしまった。
雨が子どもたちの楽しみを台無しにしたが、こちらも傘を無くして心落ち着かない夜となった。夕方の6時半。ちょうど花火会の開会式が始まったら雨がぽつりぽつりと落ちだした。「皆さん。体育館に移動して下さい」と先生たちがマイクが叫び、外にいた全員が学校へと移動した。そして体育館でのゲームや踊り、クイズとなった。
雨は止みそうもなかった。車から傘を持って来なければと玄関内にあった傘を借りることにした。しかし、たとえ一時でも、無断で他人の傘を借りるわけにはいかない。玄関の屋根の下で夜店を開いていた学校職員に「車から傘を持ってきますので、ちょっとこの傘を借ります」。そう断った。そして自分の傘を持ってきて、玄関からすぐの事務室カウンターにその傘を下げておいた。
子どもたちの花火は雨で中止になったが、やがて表で本物の花火が打ち上げられることになった。まだ雨は降っていた。花火を観ようと体育館から次々と人が外へ出た。その時なのだろう。自分の傘が誰かの手によって持ち去られたのは?。間違って持って行ったとは思えない。なぜなら、カウンターに下げられていた傘の中でも自分のは特大のサイズだったから、誰の目にもすぐ分かるはずだった。間違って持って行ったのではなく、そこに傘があったから持って行ったとしか思えない。
いずれ花火が終わったら傘は戻ってくるだろうと期待していたが、傘を手にした多くの人たちが再び学校に戻ってきても自分の傘は最後まで戻って来なかった。結局、傘を持たずに花火見学に学校を訪れた誰かが外へ出る時に勝手に持ち出して、そのまま持ち去ったとしか思えない。花火の写真を撮ろうと三脚にカメラを取り付けていたが、傘なしではカメラが濡れ、故障の原因にもなるので写真を撮ることも諦めてしまった。
いつもなら傘を無くすと「アッ。しまった」と悔しい思いはするが、今度の傘だけは悔しさ以上に心残りだった。柄が気に入っていたし、一度、置き忘れた傘でありながら、探してやっと見つけたものだ。それだけに惜しかった。3日後の月曜日。あるいは傘は戻っているかもしれないと淡い期待を持って学校を訪ねたが、傘はなかった。雨は相変わらずその日も続いていた。
「ケンニチの活動って孤独なんだよ」とぼやいたのは相手が心許せる人だったからだ。その人と会った日も雨が降っていた。「真心・ふれあい」をテーマにロサンジェルスからケンニチに寄稿して下さっている敦子・リーさんが16日に4年ぶりにケンニチを訪ねて来て下さった。大曲市内小友出身の敦子さんは「故郷の情報がアメリカにいても手に取るように伝わってくる」とケンニチとの出会いを喜び、4年前の夏にこちらを訪ねてきた。それ以来の出会いだった。
敦子さんを車に乗せ、六郷町の「湧太郎」に案内し、コーヒーを飲みながらのおしゃべりとなった。その日はなぜか「ケンニチ」の活動の孤独さ、寂しさをぼやきたかった。ロサンジェルスに在住しながら、病院でボランティアでお年寄りの世話をしているとの話を聞いていたから、こちらもつい本音を出して甘えたかったのかもしれない。
敦子さんは「伊藤さんのこち編は文章が詩のようにきれいだし、詩を読んでいるような感動を与えるわ」とほめてくれた。その言葉は嬉しかった。だから余計、苦労話をしてみたかった。「こち編って、大変なんだ。金曜日に書き上げて掲載するとホッとするけど、今度は何を書こう、何を書いたらいいのかと悩み続けてるんだ。週が開けて月曜日になると果たして金曜日までまとめられるだろうかと不安でいっぱいだし、書き終えても読者からは何も伝わってこない時は変なことを書いちゃったかな、バカなことを書いたのだろうか。読者ってどう受け止めているものだろうかって気になり、寂しさ、孤独でいっぱいになってね。仕事上の話し相手でもいて、掲載前に目を通してもらい『うん。これならいいじゃないか』と確認を得てなら安心もするし、気も紛れるかもしれないけど、そうした人もいないし・・・」。
敦子さんは目の前で黙ってこちらの言葉に耳を傾けてくれた。「うん。分かる。伊藤さんの活動って一人だからね。だったらどう、ケンニチのモニターでも募集したら。あの記事は良かったとか、この記事はどうだったとか言ってくれる人を。それに仕事上の話し相手ならボランティアで手伝ってくれる人を募集する手もあるし」。さすが敦子さんはアメリカ人的な発想である。
確かにボランティアの協力者がいて、ケンニチの記事のチェックや仕事上の話し相手になってくれる人がいたら助かるだろう。孤独の淵からも救われるだろう。駆け出しのころは市役所の「記者室」がいろんな社の記者たちのたまり場となっていて、そこへ行くとその日、その日の記事や取材上のあれこれを話題に談笑し、取材の仕方を学んだり、気分を紛らわしたものだった。今はそうした相手もいない。気に入った小説が見つかればその世界の没頭しているだけだ。
ケンニチの一番の苦労は敦子さんにもぼやいたように「こちら編集室」をまとめることだ。敦子さんからも「伊藤さん。こち編は長過ぎる。あんなに頑張らなくても」と言われた。その通りなのだが、これも性格なのだろう。ある程度の量にしないとサービスに欠けているのではないかと思ってしまうのだ。
だから月曜日からコツコツと書き始める。書いては迷路に入ったような感じで悩む。悩みながら自分の浅学さにもあきれる。無知無能。それを補おうと図書館に走り、参考図書に目を通すが解決策は中々、見いだせない。書いている間にも仕事が入ってくる。何を置いても普段の取材は優先しなければならない。一日はあっと言う間に過ぎ、火曜日、水曜日、木曜日と日は巡り、時が過ぎていく。そして金曜日。この日のうちに何とかまとめたいと精神を集中し、パソコンに向かう。書き終えるまでキリキリと神経が昂る。こうした気の抜けない日々は辛い面もあるが、どこかで楽しんでいる。自虐的なのだ。書くという作業は案外、そうしたものかもしれない。
それにしても今週は井上陽水の歌「傘がない」がずーっと耳に響いた日々だった。恋人に逢いに行きたいのだが、傘がないとぼやく歌だ。「君に逢いに行かなくちゃ。君の家に行かなくちゃ。雨の中を行かなくちゃ。君に逢いに行かなくちゃ。雨に濡れて行かなくちゃ。傘がない」。
傘をなくしたケンニチは傘のイメージで今週を過ごした。しかし、どうやらやっと梅雨も明け、傘は必要でなくなったようだ。「傘がない」の歌はそろそろ耳から遠くなりそうだ。
oldmanさんこと協和町の元教師・今野孝介さんが21日に亡くなられた。22日の秋田魁新報社の死亡広告で今野さんの死を知った。先月30日に「読者の広場」に今野さんは「oldman」のペンネームで久しぶりに顔を出され、本紙に「おそらくこれが最後の別れの挨拶かと思います」と書き込んで下さった。自分の死期を悟り、別れの挨拶をして下さったのである。
今野さんにはお見舞いの花を届けたが、あの当時から今野さんの死は時間の問題のような気がしていた。23日の葬儀。行くべきかどうか。あれこれ迷ったが、お会いしたこともない今野家の葬儀に見知らぬ自分が行くのは好意の押し付けとも思え、遠慮した。紙面を通じてoldmanさんの冥福を心から祈りたい。そしてケンニチの読者の広場を通じて今野さんへの冥福の書き込みをして下さった読者の方々にも心からお礼を述べたい。ありがとう。