朝に降った強い雨のせいか、庭に面した南側の窓からの風が冷たいほどだった。セミの鳴き声を聞き、風を受けながら籐椅子に両足を投げて本を読んでいるうちにいつの間にか微睡(まどろ)んでしまったようだ。小犬のパピーの吠える声で浅い眠りの世界から引きずり出された。どのくらい眠ったろう。日曜日の午後。ゆったりと時の流れを楽しんだ。眠りながら夢を見ていた。十和田湖を歩いている自分だった。夢の中でも湖畔を囲んだ木々の緑の美しさ、広大な湖の美しさが印象に残った。
夢の世界に導いたのは吉川英治の「新・平家物語」だった。全6巻のうち、やっと2巻まで物語は読み進んだ。源九郎義経が物語に登場しだした。その義経が平清盛の手によって預けられていた鞍馬山から逃れ、奥州・平泉の藤原秀衡の下へと身を隠すことになる。しかし、平泉での公達(きんだち)並みの拘束された生活に窮屈さを覚え、「願わくばみちのくの中を旅したいもの」と秀衡に願い出て、旅に出る。「猪苗代の大湖や磐梯山のふもとも歩いて、秋田を巡り、十和田を経、初秋のころ、平泉へ帰って来た」と旅のシーンを目にした時は正直言って胸が高まった。
義経の歴史に「秋田」の名が登場するとは思ってもみなかったからである。広辞苑によると平家物語の原本が成立したのは平清盛没後38年目の1219年から1243年だった。義経が平泉滞在中に無聊にかこつけ、奥州の旅に出て「秋田」に立ち寄ったとの話もまんざら根もはもない、小説の中の絵空事とは言い切れまい。吉川英治自身も「新・平家物語」を書き上げるまでには相当な資料に基づいて記したはずだ。小説を読む限りでは、義経が奥州の旅の最中に秋田のどこをどう歩いたかは分からないが、秋田を巡り十和田湖を歩いたと思うだけでもロマンが感じられて面白い。
そのころの秋田はどんな様子だったろうか。十和田湖はどうであったろうか。人々はどんな暮らしをしていたものだろうか。東北はまだそのころは蝦夷(えみし)とも呼ばれていた時代である。義経はきっと、馬上の人となって東北を旅したことだろう。京の都を逃れ、板東(関東)に身を隠し、さらにそこへも平家の影が忍び寄ったことから、2カ月余りの旅を続けて平泉の秀衡の保護を受けることになる。当時の旅は歩くか、馬の背に乗るしかなかった。秋田の人たちは義経一行の旅をどう迎えたものか。
歴史に疎い自分には霧の中で、乳白色の花を探し求めるような心もとなさだ。板東武者たちが義経を「御曹司」とも呼んであがめ、源氏の再興を願ったように、もしもそのころの秋田に源氏の流れをくむ武者たちが住んでいたら、秋田にも義経の記録は残り、歴史の流れも大きく変わったろうにと少し残念な気もした。
ページをめくり、義経とその母・常磐との悲しい再会やその後の平泉への旅など「新・平家物語」に没頭しているうちに、眠ってしまい十和田湖の夢を見たのかもしれない。発荷峠から眺めた十和田湖や湖畔を車で走り、緑のシャワーを浴びて感動した思い出などが夢の中に絵のように現れた。奥入瀬の流れも夢の中に登場した。夢の中では飛び跳ねるように奥入瀬を歩く自分だった。「なんで足がこんなにも軽くなったのか」。夢の中の自分は体に羽が付いたような軽さだった。
そして「義経が秋田の地を踏み、秋田を旅したとは・・・」と夢現(うつつ)の中で歴史に想いを巡らした。秋田にそうした義経に関する言い伝えはあるのだろうか。歴史に詳しい人に尋ねてみたが皆、「さあ・・・」と首を傾げるばかりだった。ただ、首を傾げながらも「鹿角市や比内、大館市あたりにはそうした言い伝えがあるような話を聞いたような気がする」という人もいた。なるほど義経が歩いたかもしれない十和田湖に近い北秋なら、義経にまつわる伝説があるいは残ったかもしれない。青森県の「三厩」には、それこそ義経が兄・頼朝の追討を受けながらも、衣川で自決したのではなく、北海道の松前に逃れたとの伝説があるとか。その際に義経が奉納した「義経寺(ぎけいじ)」という寺があるというのを太宰治の小説「津軽」で読んだことがある。秋田にもそうした伝説があったら面白いのにと想像を膨らませた。
それにしてもこのごろの自分は涙もろい。預けられていた鞍馬山から逃亡を図り、一歩間違えば再び平家の捕らわれ者となりかねない危険を侵してまで母を訪ね、母の常磐の膝にしがみついて泣く牛若の姿を想い浮かべては涙を浮かべ、常磐の「武人で生きるよりも仏の道を歩んでもらいたい」と我が子の命を惜しみ、牛若を諭す母の言葉にも泣いた。涙を浮かべながらもいつの間にか睡魔に襲われ、まどろんでいた。
「平家物語」は仏教の因果、そして生あるものは必ず滅び、不変・常住のものはないという無常観を基調とした叙事詩でもあるという。吉川英治はその平家物語を基調に「新・平家物語」を世に送り出した。「平氏にあらずば人に非ず」というほどおごり高ぶった平家。それは何も清盛一人に責任をかぶせるわけにはいかないが、高校時代に学んだ歴史でも何となく清盛は〃憎き〃人物の対象となってしまった。だが、吉川英治の小説を読み進めていくと清盛も中々の人情もろさもあって、憎めない。
義母のたっての願いもあったが、敵将の子、頼朝の命を助け、伊豆に流したのもそうだし、常磐の願いを受け入れ、頼朝の弟である牛若を鞍馬山に預けたのもそうだ。保元の乱では源氏と協力した平氏。続いての平治の乱では真っ向から対立した。保元でもそうだが平治の乱でも多くの血が流され、平氏と源氏は憎しみ合った。憎しみ合いながらも源氏の棟梁の子を助けた清盛は、そういう意味では政治家ではなかったかもしれない。政治家なら、敵将の子を生かすということはいずれは仇となって返ってくると恐れ、命を奪ったはずだ。虎の子を飼うような危険は冒すまい。事実、歴史は回転し、平氏は義経、頼朝の軍勢によって滅びる。
とここまで書いていたら遠い昔、NHKの大河ドラマでも「平家物語」が取り上げられたことを思い出した。仲代達也が平清盛を演じた。あのドラマでも清盛はどこか間が抜けたお人好しの一面を見せたような気がする。清盛は案外、好感の持てる人物だったかもしれない。
しかし、平家一族が権力の頂点に立ったと同時におごりすぎたのがいけなかった。壇の浦の戦いで滅びながらも平氏は後の世まで末永く恨まれる〃悪役スター〃となり、その後は遊女たちの「夕べは源氏を迎え、朝(あした)には平氏を迎える『浮き河竹の勤め』」と悲しい女たちの例え言葉にもされた。好きな源氏の男に抱かれても、朝になると平氏の男をも迎えなければならない遊女たちの悲しみ、嘆きを例えたものだ。
当分の間は吉川英治の「新・平家物語」の世界を遊ぼう。日曜日はこうして過ぎた。そしてその翌日。嬉しいお手紙が届いた。平鹿町の西田絹子さんからである。西田さんはアメリカ・メリーランド州在住の俊子・ポランスキーさんの実母であられる。俊子さんはケンニチの「こちら編集室」を読んでは平鹿町の母にそのコピーを送って読ませているとのことだった。そのお母さんからまで直筆のお手紙をもらった。
手紙は美しい女文字でしたためられていた。「時々、娘から貴方様のエッセーが届きます。嬉しく読ませてもらっています」とお礼が述べられ、近況報告が書かれてあった。そして「一度だけ会った人に手紙を書くなんて、失礼と思いましたが、いつもエッセーを読んでいると何となく、慕わしいような気がしてくるのです」ともあり、「貴方様もお体に気をつけて下さいませ」(74才 老人 絹子)とあった。
わざわざお手紙を下さった俊子・ポランスキーさんのお母さんの温かい気持ちを思うと胸が熱くなるばかりだった。ケンニチにはこのような読者の方もいて下さる。夏の夕に届いたさわやかなお便りを手にし、南の空を眺めた。その空の下には俊子さんのお母さんが暮らしている。義経が幼いころ、鞍馬の山から母の常磐を想ったように、自分も南の空を眺め、俊子さんのお母さんを想い浮かべた。空が次第に薄紫に染まっていく、美しい夏の夕べだった。