こちら編集室「青空が恋しい」(8月16日)

 空が暗い。鉛色の雲が一面に空を覆ったままだ。8月に入ってからのこの天候不順はどうだろう。まるで梅雨がぶり返したような雨と曇りの日々となっている。このままでは夏を楽しむことなく、季節が秋へと移ろいそうだ。真夏の長雨はまるで1年分を損したような感じさえする。屋根から落ちる雨垂れの音を聞きながら、「青空が恋しい」とつい歎いてしまった。

 13日のお盆から休暇を取った。15日までの3日間だったが、15日は大曲市の成人式があって取材日となった。この日も雨だった。着飾った新成人の華やかさ、幸せそうな顔を見ながら、自分にもこうした輝ける〃二十歳〃があったなと遠い昔をしのんだ。成人式と言えば一昨年当たりから「荒れる成人式」が全国的に問題となり、若者たちの無謀さが大人たちのひんしゅくを買った。そうした若者と違って、大曲市の「成人式」は見ていて気持ちいいほどりっぱだった。

 式典が始まるまでは古い言葉で言えば「鼎の沸くが如し」だったが、式が始まると誰一人私語を交わすことなく、市長や来賓の式辞、祝辞に耳を傾け、粛々としたムードで営まれた。来賓の市議団や当時の先生たちからは「りっぱな成人式だった」とおほめの言葉を聞いた。本当に見ていても清々しい式だった。彼ら、彼女たちは「自分たちを祝ってくれるために多くの人が集まってくれるのだ。決して失礼な態度は取るまい」と自戒を込めているようだった。それだけに雨が気の毒だった。きっと式典の夜は同級生と連れ立って町を歩き、華やいだ服装で晴れの日を楽しみたかったろう。雨が立派な若者たちの成人式に水を差した。

 お盆の13日に柴犬のアキを久しぶりに洗った。風呂場まで抱いていったが、久しぶりに抱いたアキは小犬のパピーと違って、ズシリとした重さを感じさせた。若かったころはシャワーが嫌いだったアキだが、このごろでは生温い湯を体に浴びると気持ちよさそうにジッとしている。目は白内障を患い、耳は難聴となり、歩くことも走ることも厭(いと)い、ただ眠ることを楽しみとしている。アキが老いて初めて知った。犬も人間も老いるということは同じなんだと。しばらくはアキの老後を静かに見守ろうー。

 お盆の墓参りは雨の心配もあって、時間を早めた。台所に立って、お墓への水や花を用意し、料理を準備していた妻が叫んだ。「あなた。線香とロウソク、それにマッチは自分で準備してよ。何もかもアタシを頼ってはだめよ」。その声を聞いて、これが我が家の平和、幸せなんだと思った。言い訳ではないが、自己管理さえ苦手な自分は、家庭の些事も一切、妻にゆだねている。何があっても居候のようにブラブラしているだけだ。それだけにかいがいしく動く妻には頭が上がらない。病気で倒れた父と母を自分の父、自分の母のように世話してくれたのも妻だった。

 自宅近くの横手川父と母の眠る墓地は車で行っても数分の近さだ。やはり雨を心配してか、みんな早めに来ているようだった。あちこちで墓前に手を合わせる家族連れが見られた。迎え火の煙が立ち上るのを見ながら、亡くなった父や母をしのんだ。

 父が亡くなったのは1979年9月27日だった。78歳だった。それから9年後の88年3月11日に母は88歳で亡くなっている。79年2月に母が脳卒中で倒れ、そのまま入院生活となった。母が「頭が痛い」と寝込んだ晩、自分は記者仲間と麻雀に興じていた。妻からの「あなたお母さんの様子が変よ」の電話に驚いて自宅に走った時はまだ、自分で着物をタンスから取り出し、自分で着替えられるほどの気丈さだった。

 車に乗せて病院に駆けつけ検査を受けたら、担当医は「軽い脳卒中だが、油断は出来ない」と答えた。しかし「油断は出来ない」と言ったようにその晩、再び当たり直しが来て母はそれきり寝たきりの状態となってしまった。入院したその母に付き添っていたのが父だった。その父も間もなく病院で倒れ、そのまま入院した。

 父の主治医から呼び出しがあって診断結果を知らされた。「肺ガン」だった。「お気の毒だが、今の状態からしますと後、半年と思って下さい」。妻と席を並べながら父の死の宣告を受けた時のショックと悲しみは今も忘れられない。人はいつかは死ぬとは思っていたものの、父の死も母の死もあの当時はまだ遠い遠い先の話としか思ってなかった。ましてや「ガン」という病気は我が家には縁がないものとさえ思っていた。

 それから父が亡くなるまでの半年間、自分たち夫婦は母の病室のベッドの下をねぐらに病院に泊まり、病院から職場に通勤すると言う生活となった。完全看護体制の総合病院だったが、脳卒中で倒れ、半身不随の患者は手がかかるということもあって、ほとんどの患者の家族が病院に寝泊まりしながら生活していた。付き添っていても何をやれるというわけではなく、ただ夜間に「トイレに行きたい」となれば起き出して車いすに乗せ、トイレに連れていくのが主な仕事だった。

 しかし、その単純な作業が妻を苦しませた。深夜の1時、2時、3時と3回も母は目覚め、「おしっこが出る」と絞り出すような声を上げた。その度に妻は眠い眼をこすりながら、車いすを運んできて、母を抱き上げ、トイレに走ったものだった。こちらも気づいた時は手伝ったが、母とはいえ、女の下半身の事を手伝うのにはためらいもあって、ほとんど妻に任せきりとなってしまった。寝不足で疲れ切った妻が哀れだった。

 一方、まだ歩けた父は朝夕、母の病室に来ては母を見舞い、自分の病気は軽いものだと信じ込み、いつも笑顔で母を励ます姿が痛ましかった。一家4人が病院で暮らすという生活。病院でご飯を炊き、おかずを調理し、寝たきりの母を囲んでの夕食は父が歩けなくなる7月ごろまで続いた。父は「マア。おれの病気はなんだと先生は言っている」と一向に病気が回復に向かわないのを気にし出したのは7月ごろからだった。

 父から病気のことを尋ねられるのが一番、辛かった。「大丈夫だ。間もなく退院できると医者は言ってる」と言いながら、「でも、退院したってこっちはばあさんから離れられないし、みんなでここで暮らしている方が楽だべ」と答えると「入院費用が大変だべ・・・」と父はお金を心配した。医療費は当時、老人医療費でほとんどかからなかったが、父はそれでも家計を心配していた。こちらはそんな父に「ああ。お金か。お金のことなら大いに心配しておいて。親に心配をかけるのも親孝行の一つなんだから」と応えた。その言葉を聞いて、吹き出すように笑った父は、それから間もなく一人では歩くのさえ出来なくなった。

 職場から病院に戻ると4階と5階の病室を何度も往復する日々が続いた。そして、病気の進行に伴って大部屋から個室へと移った父のため、今度は父の部屋に寝込んでの看病となった。見舞い客が来ると父はボロボロと涙を流し「もう。おれは助かる病気じゃないようだ。世話になったな」と泣いた。その声、その顔を見ておれず、こちらも涙を抑えながら、病室を飛び出した。思えば8月はずーっと泣いて暮らした父だった。それでもお盆の13日には母と一緒に家に帰りたいと言い出した。「家の空気を吸いたいんだ」と父は哀願した。

 しかし、家に居れたのは午前中の数時間だけだった。母と枕を並べ、狭い庭を眺めながら「ああ。家に帰ったな」と喜んだのも束の間、父は枯れるような声で「マアー。カズコー」と叫んだ。台所でお盆の準備をしていた妻だったが、父と母の枕元に座り「なーに。どうしたの?」と子どもをあやす様な声で聞いた。多分、医者の手から離れた後の病状が怖かったのだろう。父は「病院に帰りたい。病院に帰りたい」と子どものようにぐづついた。その願いを聞き入れて再び病院のベッドに運ぶと、ホッとしたように眠った。その日からはトイレに向かう時でさえ、補助器具に頼り、そして9月に入るとほとんど昏睡状態に陥り、27日深夜に眠ったまま息を引き取った。

 父が亡くなった晩。母は病院のベッドで黙って涙を流していた。「家に連れて行きたいけど、葬式の準備もあるから、迎えに来るまでここで我慢していてナ」。母は無言でうなずいたが、目は虚ろだった。孤独の影が母に寄り添っていた。東京や横浜から兄たちが駆けつけ、母を慰めた。父の遺体を運んで、家に入ってから自分は大声で泣いた。もっと生きていて欲しかったと泣いた。まだ32歳の自分だった。まだ父の庇護が欲しい年齢でもあった。

 父の死後、母は病状も安定し、退院することになった。しかし、我が家では引き取ることが出来なかった。寝たきりの母を自宅で世話するには妻が退職しなければ無理な話だった。妻の働きもあってやっと維持できた家庭だった。母を諭し、特別養護老人ホーム「欣寿園」へ入園してもらうことにした。「おれを老人ホームに入れるのか」と母はなじるような口調で言った。「仕方ねべ。おれたち働かなければならないし」。母は悲しみながらも納得した。

 老人ホームでの生活に不安を見せた母だったが、初めてその玄関をくぐり、その日から暮らすことになる部屋までかいがいしく、そして温かい笑顔と声を掛けて世話をする寮母さんたちの優しさと親切さにホッとしたのか「よろしくお願いするんし」とあいさつを述べた。その日から朝夕2回、ほぼ毎日、欣寿園には通った。自宅から会社の途中にあった便利さもあったし、できるだけ家族はいつも一緒だよという雰囲気を作ろうと思ったからだ。母の部屋に顔を出すと母は「来たが。来てけだが・・・」といつもたったひと言を口にするだけだった。

 それから二年後のお盆に父の眠る墓地に墓石を買い求め、建てた。兄たちが母の見舞いも兼ねてお盆に帰省した。兄たちは「欣寿園」から自宅に戻った母を背負い、墓地まで連れて行き「ばあさん。これがマアと和子が建てたお墓だよ。立派だねー」と背中の母に語りかけた。黒御影の墓石をぼんやりと見つめていた母は「ンダナ」とうなずいた。そして「マア。難儀かけたな。ジサマも喜んでいるべ」と涙をこぼした。

 お盆の13日は墓前で迎え火を焚きながら、亡くなった父と母を目に浮かべた。父が死んでもう23年、母が亡くなって14年の月日が流れた。父の死の時は涙がとどめなく流れたが、母の死の時は悲しみはなかった。特別養護老人ホーム「欣寿園」のお世話になったとはいえ、母には充分な世話を自分たちもしたつもりだった。目の前で迎え火がチラチラと燃えた。雨がポツ、ポツと落ちてきた。父を想い、母を想い、墓地を去った。どこまでもどこまでも鉛色の空が広がっていた。「青空が恋しい」とつぶやいたお盆の13日の夕だった。