「ベートーベン作曲、ピアノソナタ『月光』をお聞き下さい」
もう20年近くも前になるが、当時の長洲神奈川県知事、西郷横浜市長を迎えた音楽祭があった。その音楽祭本番の一週間前、事情あって突然ナレーションを依頼された私は、「あえいうえおあお、かけきくけこかこ、させしすせそさそ」と必死の特訓。横浜スタジアムで2万人を魅了した数々の演目の中で、私はひと際ピアノ独奏された『月光』に心を奪われた。ド・シロートの私だったが、この時のナレーションの経験で、心臓に黒髪が生え、たっぷりドキョーがついた気がする。
あれから3年後渡米。たっぷりドキョーで潔く、アメリカ市民になった。この国で生き死んで、この国の土になろう。かっこつけでも何でもそう決意して、たくさんの人との出会いを作った。出会いの中で、会うべくして会う人がいる。自分の人生が良い影響を受けるために、時を得て会って、強い縁を感じ、引き合い親しくなった人。老若男女ひっくるめて、私はその人たちを友人とよんでいる。その一人がドリス・ハード。私が出会った時、彼女は68歳だった。
「長男は3歳、長女はまだ6ヵ月の赤ちゃんだった。一方的に主人から離婚したいと言われた。ショックだったけど、恨み憎んでも自分が苦しいだけだから、彼を解放してあげることにしたのよ。それだって私の精一杯の彼への愛情だった」と、彼女は語り始めた。明るく強く、上品で、ユーモアをいつも忘れない、ドリスは骨ガンで闘病一年。あと半年の命と宣告されていた。99年秋のことである。
彼女は東ドイツ生まれ。西ドイツに移住、ロンドンで英語を学び、カナダのトロントへ。そこで夫のアルバートと出会い結婚。大学の数学教授だったアルバートの関係で、ボストン、サンフランシスコ、ロスと住んだ。そしてロスに住んで数年で離婚。「現在を嘆くよりも、過去に感謝して、未来に向き合いたかった。だから望みだった訪問看護婦になるため、夜の大学に行くことにしたのよ。子どもたちには迷惑もかけたけど、7年で卒業し資格をとった。一人で闘病している人はみんな寂しいのよ。看病する以上に話を聞いてあげる、それがどれほど患者の癒しになるか感じたわ。そして私も自分を頼り、待ってくれている人がいる。そう思うといくらつらいことが続いても、生きる力が沸いてきた」
「忙しかったから子どもと一緒に過ごす時間がなくてね、子どもが中学の頃はすごく荒れた。特に娘は精神的に不安定になって拒食症になってしまった。でも必ず大丈夫。そう決めて子どもを信じて待ったのよ。娘は今、全快して、同じ拒食症で苦しむ人たちを助けるために、各地で講演してまわってる。病気が治ったら、娘にいろんな応援してあげたい」。ドリスは子どものことを話す時、本当に嬉しそうに誇らしげに輝いた。
彼女の長男、長女は車で一時間くらいのマリブに住んでいる。長女は一週間に一度はドリスを見舞い、長男は毎朝毎晩電話を入れた。ドリスの近所の私は、週2,3回午後5時から午後6時に訪問。アメリカは入院一日でも治療によって10万円もかかってしまう、莫大な医療費。だからガンでも、ドリスのように自宅で闘病するケースがほとんどだ。車も運転できるし、食事もできるドリスだったが、だんだん病気は進行していった。看護婦として知識があるから、自分で希望して週末に病院に入り治療を受けることも多くなっていった。
それでも半年の命と宣告された彼女が、2000年の春を迎え、夏を迎えた。彼女の楽観主義と、病の克服のためには何でもしてやる!のサバイバル精神。私は何度、彼女にハッパをかけられたことだろう。この年の6月から、私は彼女の訪問を毎日することに決めていた。たくさんの一人暮らしの患者さんに激励したドリスが、彼女自身が同じ立場になった。その彼女に、看護知識もない私だけど話相手になることで、少しでも尽くせたら光栄だと思ったからだ。悲しみも苦しみも、全部輝きの栄養にしたドリスに学んで、自分の人生に良い影響を与えたかったからだ。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう」。 ドリスは最後の入院で、3回私に繰り返してくれた。彼女の精一杯の心を全身で感じた。「前のダンナとはいい友達になったのよ。私の病気を知ってから、アルバートが電話くれるのよ。毎日よ。彼の気持ちを汲んでくれる今の奥さんもなかなか素敵な人ね」。今はカナダに戻ったドリスの前のご主人アルバートは、ドリスが亡くなる前の一ヶ月の間、ロスの長女宅に滞在。最後の入院をしたドリスの病床で、亡くなるまでそばにいてあげた。私がドリスに通い始めた1999年10月10日から、丁度一年後、2000年10月9日に彼女は今世の生涯を閉じた。享年69歳。
「姉は、私が見舞う度に、この曲を弾いてほしいと必ず頼みました。この曲は、ベートーベンが、耳の病に苦しみ始めた中期の作品です。姉は、自分の不治の病に立ち向かいながら、懸命に絶望と闘っていました。残された余命を、永久に慈しむように、私の弾くピアノの音をじっと聞いていました」。
ドリスの妹のウセラはそう前置きして、亡き姉のために、ピアノソナタ『月光』を弾いた。ドリスの葬儀の最後の式次第に、静謐な美しい曲が流れた。その曲を聴きながら、私の前では、強く明るく見えたドリスだったけれど、暗い絶望のどん底で深く自分を見つめ洞察していた、彼女の内面を垣間見る思いがした。
ドイツ、カナダから葬儀にかけつけたドリスの兄弟たちが帰国する前夜、私たち夫婦は、ドリスの家族・親戚との夕食に招待された。長男のエヴィン夫婦、長女のカリーナ夫婦が、家族のように私たちを迎えててくれた。「お母さんの人生に感謝と敬意をこめて、僕たちの健康のために祈りを捧げよう」と、エヴィンが音頭をとって、12人が手をつないで輪を作り目をつむった。「ドリス、ありがとう。会えて嬉しかった。いろんな話を聞かせてくれてありがとう」。私は心の中で、合掌した。
現在、私の家にはドリスが愛用したスタインウェイのピアノがある。長男が、リリアン(私のアメリカ名)のそばに置いてもらったら、お母さんも喜ぶから」と、エヴィンが運んでくれたのだ。そのピアノの前の壁には、国際カメラマンとして活躍するエヴィンが作った特性の礼状カードが額に入れ掛けられている。
そのカードには、ドリスが離婚後子ども二人を連れて海辺で撮った写真が複製されていた。若くきれいなドリスが3歳のエヴィンを抱いているものと、生後6ヶ月になった赤ちゃんのカリーナを抱いてドリスがにっこり笑っている2枚が、一枚のカードになっている。母親の愛情が満面に溢れ、輝いているドリス。明日から10月。ドリスの声が聞こえる気がする。