手にしたこうもり傘をパラパラと雨が打った。朝から降り続けている雨の音だ。この季節になって耳に響く雨の音は暗く寂しい。心まで濡れていく。風景は冬に向かって色を失い、雨がそれをさらに陰鬱(いんうつ)なものとする。初冬の雨の多い季節となった。青空の見られない10月下旬から11月にかけての秋田のこの季節は寒さも加わって気持ちがすぼむ。雲の隙間から見えた東山はもう既にくっきりと雪化粧をしていた。冬がもう目の前に迫っていることを東山が語っていた。
少し鬱(うつ)な気分から抜け出そうと雨の中を歩いた。大曲市役所の東側歩道に面したケヤキ並木の紅葉が良かった。雨の中で赤くなった葉や黄色くなった葉がとても美しく見えた。車を置いて、再び戻り返してケヤキ並木の下を歩いた。雨の滴がパラパラとこうもり傘を打った。傘を足元に置いて、ケヤキ並木にカメラを向けた。
薄暗かったせいかシャッターを押した瞬間、ストロボの光りも同調した。ケヤキ並木という大きな風景に向かってデジカメに内蔵されたストロボの小さな光りは、深い闇に向かってマッチの火を灯すようなものだ。効果がない。ストロボが同調しないようスイッチを切って、再びシャッターを切った。モニターで画面を確認したら手ブレが起きていた。何度か繰り返し、どうにか手ブレのない光景をカメラに収めた。
歩いてきた男の人が「やあ。どうも」と立ち止まって「写真撮りですか」と尋ねた。こちらも「ああ。どうも」とおうむ返しに同じ言葉であいさつを交わし、「ええ。写真撮りです」と答えた。「寒くなって」と相手の男性はいたわるような言葉で、自分の横に並ぶように立ち止まって手にしたこうもり傘を差し向けた。自分よりもずっと年配の方だと思った。雨に打たれながら写真を撮ろうとしている自分のためにこうもり傘を差し出してくれたのだ。「ああ。すみません」。「なーに。せっかく写真を撮っているのに邪魔をしたようで」とその男性は低い、静かな声で答えた。
お礼も兼ねて「こんな写真が撮れました」とデジカメのモニター映像を見せると「オーッ」とさも感心したように写真を見つめ、「やっぱりいいところを撮る」と褒めながら立ち去った。それほど自慢できそうな写真ではなかったが、お褒めの言葉をいただいたのは嬉しかった。去っていくその人の後ろ姿を見つめ、小さなと言うのも変だが、小さな優しさを感じた。雨がシトシトと降って、歩道は銀色に輝いていた。見知らぬ人が差し出してくれたこうもり傘の温かさ、そしてケヤキ並木の葉の赤、黄色がとても印象に残って感動した。
感動と言えば先週の土曜日(26日)の朝日新聞に掲載されたキム・ヘギョンさんの写真にはこちらも「もらい泣き」をしたくなるような感動と強烈なインパクトを受けた。キム・ヘギョンさん。あの北朝鮮に拉致され、若くして亡くなったとされる横田めぐみさんの娘である。この少女の取材をめぐってはインタビュー内容が「残酷過ぎる」などと横田さんのご両親だけでなく多くの国民が厳しく批判しているが、それはそれとしても朝日新聞に掲載された一枚の写真こそ、横田さんの悲劇、そして亡くなっためぐみさんの娘として生まれたキム・ヘギョンさんの悲劇を痛烈に物語っていると思った。
写真は新聞記者になったばかりの当初から「写真も記事も同じくらい大事なものと思って撮るように」、「いい写真にはどんな名文を書いてもかなわない」などと教えられたものだった。原稿を書くのに四苦八苦していた当時は、写真はただ「シャッターを押せば誰だって写せるんじゃないか」と、軽く考えていた。構図とか、写される相手の微細な表情とかはほとんど考えることなく、シャッターを押した。現像してフイルムを渡すと「これではフイルムの無駄遣い。もっと考えて撮りなさい」と先輩記者に何度も注意された。
そうした苦い体験もあって、写真もバカにされないと自分自身に言い聞かせ、カメラ雑誌を講読したり、「映像芸術」などの本を買い求めては「写真」を学んだ。中でも名人とも言われた土門拳や木村伊兵衛のスナップ写真には学ぶものが多かった。二人は著名な作家や芸能人などにスポットをあて、光りの陰影を見事に利用し、写されたその表情からは心の襞(ひだ)まで見えてくるような写真を撮った。特に木村は秋田の農村を歩き、農家の人たちの生活や暮らし、人間の喜怒哀楽という感情を見事なシャッターチャンスで捉えた。その数々の写真からは学ぶものがとても多かった。
またベトナム戦争で亡くなったUPI通信のカメラマン・沢田教一の写真集「戦場」にも大きな感銘を受けた。沢田は銃弾や砲弾が行き交うベトナムの戦場で、自らの生命の危険を顧みず、銃を手にしたアメリカ兵の前に立って、戦う兵士の緊迫した表情を捉えた。そして戦火に追われ、安全を求めて2人の母親が子どもたちと共に川を渡ろうとする戦場の人間ドラマを捉えた「安全への逃避」でピューリッツア賞を受賞した。沢田は戦場でそのまま命を落としたが、沢田の写真からは「報道写真」のあり方、写真を撮る心構えなどを学んだ。
スナップ写真だけでなく、風景写真にも随分と凝った。四季折々の風景を撮っては「写真エージェント」にも預け、自分の写真が何かに使われ、版権使用料が銀行に振り込まれるとプロカメラマンにでもなったような錯覚に陥り、自慢したものだった。しかし、努力しても才能のない自分に「写真」で飯を食うのは無理といつしかあきらめ、写真は趣味の域からはみ出すことはなかった。そして今日を迎えた。
だが、いい写真に出会うと「オッ」と今でもあのころの血が騒ぐ。それが今回の朝日新聞の一面を4段抜きで大きく飾ったキム・ヘギョンさんの写真だった。大きな涙の滴をこぼし、ほほから流れ落ちる瞬間を捉えた一枚の写真は、彼女の悲しみを痛烈に物語っていた。
写真は朝日、毎日の両紙とフジテレビが平壌のホテルでインタビューした際に両紙のカメラマンが写したものだった。インタビューの内容に関しては「15歳の少女に対するものとしては質問が残酷過ぎる」と批判もある。確かにその内容には酷な面もあったが、面談した記者らは何とか少女の心の真相に迫ろうとしたのだろう。
しかし、その真相に迫ろうとした多くの言葉よりも朝日新聞に掲載されたキム・ヘギョンさんの一枚の写真が何よりも多くを物語っていた。同席した毎日新聞のカメラマンも同じ涙を流した写真や笑顔の写真など3枚を使ったが、朝日の一枚の写真が彼女の悲しみ、日本人の母の下に生まれたこと、そしてその最愛の母を失った心の痛みのすべてを語っていた。
他紙はすべてフジテレビの映像から写した写真を掲載したが、やはり現場を踏んだカメラマンの迫力にはかなわない。そして現場を踏んだカメラマンでも瞬間を捉える直感とセンス、そしてその写真を見て、紙面でどう扱うかといった編集の才能がいかに読者にインパクトを与えるかを教えられた。26日の新聞はその違いを見事に表していた。
それにしても北朝鮮の拉致問題は日本人被害者家族に深い悲しみと憤りを与えただけでなく、自らの国民にも悲劇をもたらす結果となった。一時帰国した拉致被害者は日本政府も帰国させず、北朝鮮に残した家族も呼び戻す方向で交渉が始まった。
横田めぐみさんの父・滋さんと母の早紀江さんは孫であるキム・ヘギョンさんをも日本に呼び戻したいと訴える。当然の感情だろう。しかし、インタビューに答えたキムさんの言葉も痛々しかった。「お父さんは朝鮮人。お母さんが日本人だからといって、どうして行けるでしょうか。お父さんが賛成してくれるとは思いません」。この言葉にも泣かされた。
それにしてもスチールカメラからデジタルカメラに切り換えて以来、シャッターのもどかしさには困惑する。瞬間を撮ろうとしてもデジカメのシャッターは反応しない。いや反応しても一歩、遅れる。一眼レフの高級デジカメなら、これまで使ったカメラ同様のシャッター反応らしいが、その値段を見ただけで目が回る。とても手が届かない高嶺の花なのだ。当分は今のデジカメで我慢しよう。