こちら編集室「布団」(11月22日)

 晴れた朝だった。東山は濃い紫色にけむり、その上には明るい大きな星が一つ輝いていた。星のきれいな朝だった。山の稜線は巨大なかがり火を焚いているように赤く染まっていた。太陽が昇ろうとしているのだ。木々は霧氷で真っ白な衣装を着け、幻想的な美をなしていた。まだ11月というのに1月か2月の底冷えのする朝だと思った。地の底が音を立てて凍りついているような感じだった。

 その朝の厳しい冷え込みが雨を呼んだのか、明けると厚い雨雲が一面に広がって、冷たい雨がパラパラと音を立てて降り出した。冬の雨は、雪よりも気分を暗くする。冬の雨は「演歌」のように心を寒くする。月曜日朝から降り出した雨は5日も続いた。「今年は雨が多過ぎる」とこうもり傘を手に天候不順を怨んだ。それにしても寒かった。

 その寒さには弱い方だが、つい最近まで気がつかないまま夏の布団で過ごしていた。薄い夏布団と毛布だけで何とも思わずに眠っていた。雪が降り出してからその布団の薄さに心もとなくなって、「おい。これって夏布団じゃないか」と妻と二人であわてて押し入れから冬用の厚い布団を出した。寒さも知らずに「夏布団」をつい最近まで使っていたのだから、昔の綿入れの布団に比べ、最近の布団の保温力の高さには感心した。

 冬の寝床と言えば子どものころは分厚い藁(わら)の入った「しべ布団」があった。しべ布団の上に布団を敷いて、さらに丹前と重い布団を2枚も重ねて冬の寒さに耐えたものだった。コタツに入って温まっていたら4つ上の兄が「マア。遊びに行くべ」と夜になって言い出したのを真に受け、「ウン。行く。どこへ」と喜んで返事をしたら「夢の間だ」と兄は言った。何も知らずに「行く。行く」とはしゃいだのだが、兄の言う「夢の間」は障子を開けた隣の座敷に敷かれたしべ布団のことだった。

 もやに煙る東山(千畑町で撮影)「なんだ。もう寝るのか」とガッカリしたが、敷布団の代わりに敷かれた藁入りの布団のゴワゴワした感触と藁独特の甘い香りが確かに「夢」のような心地にさせ、二人で飛び跳ねてはしゃいだものだった。トランポリンのように飛び跳ねた。飛べば飛ぶほど藁の臭いがプーンとかもし出され、部屋の中はホコリだらけとなった。もちろん親には「コラッ!」と叱られはしたが・・・。藁の敷布団にはふた冬、お世話になった記憶がある。寝ていてもフカフカと温かく、気持ちよかった。農家でもないのにどこからあれだけの大量の藁を仕入れて敷布団にしたものか。今思えば不思議な冬の思い出だ。

 冬。冷たい布団の中に入るのは辛かった。体が温まるまでただ布団の中でブルブルとふるえていた。そんなこともあって母は布団を敷き終えると湯たんぽをその中にしのばせてくれた。その湯たんぽを抱きながら眠った。それから幾冬か過ごしたら湯たんぽに代わって豆炭あんかとなった。囲炉裏の中の炭火で豆炭を真っ赤に燃焼させ、石綿の入った四角い金属の箱に詰め、それを布でグルグル巻きにし布団に入れて眠った。

 父も母も兄も、その上の兄も、とにかく家族皆の分だけ豆炭あんかが用意され、冬の夜は囲炉裏を皆で囲み、炭火の中で豆炭が真っ赤になるのを見つめたものだった。しかし、湯たんぽも豆炭あんかも温かくなっているのはその部分だけで、足は冷たいままだった。布団を温めるのが豆炭あんかなら、体を寒さから守ったのは綿入れの〃どんぶく〃と呼ばれた着物だった。どんぶくを羽織ると背中がポカポカして、寒い冬の夜はそれを着て過ごした。母が晩年に作ってくれたどんぶくは今も健在だ。もう着ることはなくなったが、冬には欠かすことの出来ない温かい衣類だった。

 冬の布団を温める器具はその後、電気毛布に代わった。この電気毛布にも随分永く、お世話になった。眠る1時間か2時間前にスイッチを入れておくと布団の中はほどよく温まり、気持ちよく眠れた。朝、目覚めると外を吹き荒れた粉雪が窓の隙間から飛び込んできていて、枕元が雪で真っ白になるような家の中だったが、電気毛布はそうした寒さから身を守った。

 羽毛布団のおかげで今はその電気毛布も丹前も要らない時代となった。布団にくるまれながら、北朝鮮から帰国した5人の拉致被害者たちの暮らしを思いやった。あの人たちも今はそれぞれの実家で温かな布団にくるまれ、ホッとした日々を送っていることだろう。19日の新聞では自宅でパソコンを習っている新潟の蓮池薫さん、祐木子さん夫妻のほほえましい姿が報道されていた。来日した当時は顔に〃険〃があった薫さんだったが、このごろではとても穏やかな表情になっている。日本での生活、実家の布団の温かさが次第に心を開かせ、強い警戒心も雪のように解けているようだ。

 蓮池さんだけでなく、曽我ひとみさんの顔も明るくなった。地村保志さん、富貴恵さん夫妻は元々、明るかったが今は笑顔に微塵の影もない。この5人の方々全員がパソコンを習得し、お互いにメールの交換やホームページを自由に行き来できるようになったら、もっともっと世界は広くなることだろう。北によって奪われた24年という長い、気の遠くなるような時間を取り戻すのは無理なことだが、5人の被害者の方には幸せを実感してもらえるような生活を与えてもらいたい。北に残された5人の子どもたちや家族への不安や心配はあるだろうが、政府は全力を挙げてその家族をも日本に呼べるよう努力しているようだ。拉致被害者全員が心底、笑える日が来るのを祈りたい。

 いやこの5人だけでなく、横田めぐみさんのご両親ら北で亡くなったと言われている被害者家族全員が一日も早く笑える日が来るのを祈りたい。