こちら編集室「ケンニチ6年の歳月」(12月6日)

 青空─。12月1日の朝。雲一つない青空を見たのは何日ぶりだったろう。冬の青空がさわやかだった。冬の青空が嬉しかった。太陽がポカポカしていた。心も温まり、歩いていてもハミングを口ずさみたくなるような1日だった。

 1日の日曜日は田沢湖町で取材があった。田沢湖・角館地域の観光を個々の町村で売り込むのではなく、4町村の行政と民間が力を合わせ、面の力で売り込む観光ネットワーク設立の取材だった。このような集まりがあることは知っていた。だが、日曜日なので休もうと〃怠惰〃を決め込んでいた。その前日の夕、県観光課田沢湖・角館地域振興班の方から「取材のお願い」とのメールがあった。ケンニチもこうした県の機関からもメディアの一つとして声が掛かるようになったんだと気持ちを入れ換え、取材に向かうことにした。

 田沢湖町は自宅から約50キロ。車で1時間ほどの距離。日曜日。空は真っ青な天気だった。新聞記者に土・日もへったくれもあるかと、若いころは休日を惜しむ気はなかったが、このごろは「せめて土・日は休養したい」。そんな怠惰な体になってしまった。その上、普段は家を留守にしていることもあって、土曜日とか日曜日とかは家庭内の雑事もたまっている。掃除機もかけなければならない。たまった古新聞を束ねてまとめる仕事もあった。

 台所を片づけ、洗濯物を済ませた妻が寝室の収納壁の片づけを始めた。洋服を入れた段ボール箱を次々と取り出して「これをゴミに出したいから」と言う。収納壁の中から出された段ボール箱はかなりの数に上った。頑丈なホチキスが4隅に打ち込まれた箱は解体するのも中々、骨が折れた。ペンチで金具を抜き取って、箱を一つひとつ解体しては折り畳んだが、時間はあっと言う間に過ぎた。やっと終えたと思ったら「古新聞を束ねよう」と妻はいう。2日後の火曜日が古新聞の回収日だった。

 霧の朝箱の解体作業を興味深そうに見ていた小犬のパピーは、こちらが一段落した様子を見て「遊んでよ」とワンワン騒ぐ。パピーとも遊んでやりたい。古新聞を束ねる仕事も手伝いたい。しかし、もう時間がなかった。「ごめん。もう10時。今日は田沢湖町での取材があって、早めに家を出たいんだ」と古新聞だけは妻に頼んで家を出た。田沢湖町での取材は午後1時からだったが、その前に湖畔を回って表紙を飾れる写真を撮りたかった。

 西木村では美しい山里の風景と出会い、湖畔では雪化粧した「駒ヶ岳」が湖に影を落とす絵のような風景と出会った。青い空と金色に輝く辰子像、そして湖に峻烈な美の姿を映す駒ヶ岳。その3点セットはもう余りにも見あきた陳腐な眺めだが、写真を撮りながら思った。

 「秋田県南日々新聞」の読者は必ずしも県内在住者だけではない。秋田に足を踏み入れた事もない人だっている。そうした読者にとっては地元の人が見あきた風景でも新鮮に映るだろう。何枚か撮った写真の中から「辰子像」こそ入れなかったが、青い空と湖、そしてそこに姿を映した「駒ヶ岳」、それを眺める女性の後ろ姿を入れた写真を選んで表紙を飾った。

 秋田県南日々新聞は1996年12月1日に誕生した。あの当時、個人でインターネット新聞をやってみたいと思いついたのは多分、自分だけだったろう。朝日や読売、毎日、そして産経の4大紙、それに日経新聞、河北新報などブロック紙は既にインターネットでも新聞を発行していた。だが、個人で「インターネット新聞」を発行している例はなかった。ヤフーに登録された新聞を見る限り、インターネット新聞はあの当時、「秋田県南日々新聞」だけだった。

 パソコンを覚えようと思ったのは、50代に入る前に少しでも充実した人生にしたかったからだ。しかし、パソコンを買い求めても悲しいかな、使えるようになったのはワープロ機能だけだった。それでも半年後の10月には、大曲市にもプロバイダー「おばこネット」が誕生した。それまではニフティでパソコン通信を楽しんでいたが、プロバイダーが誕生したことから「今度はインターネットだ」と一気に期待は膨らみ、加入した。だが、インターネットにかけた〃夢〃はしゃぼん玉のように簡単に弾けた。どのホームページに接続しても、詰まらないものばかりだったからだ。

 世界に向けて情報発信とは言うものの、当時、個人や企業、学校などが持つホームページは情報とは名ばかりで、とてもこちらが電話料を負担してまで見たいと思わせる価値は見いだせなかった。アダルトなホームページを覗いても気だるくなるばかりだった。結局はインターネットに価値を見いだせず、プロバイダーとの契約も解消しようと真剣に考えた。

 幾分でも興味を持てたのは新聞社のホームページだけだった。新聞社のホームページを巡っていて気がついたのは、夕方になると全国紙の多くは翌朝の朝刊に差し込む記事をいち早くインターネットで流していた点だった。これこそインターネットの持つ力ではないかと思った。そして自分でもホームページを持ったら、一人でだって「新聞」を発行できるのではないかと期待が沸いた。ホームページを持ちたい。ホームページで誰にも束縛されない新聞を発行してみたい。そう思った。

 しかし、パソコンに関する知識はまったくゼロの自分だった。ワープロ機能しか使えなかった自分がどうしてホームページを作れるのか。ただ夢遊病者のように「インターネットで新聞を発行したい」とパソコンを買い求めた会社を訪ねては、訴えた。しかし、その会社の方もホームページに関する知識はあっても、技術はまだ備わっていなかったのだろう。あいまいな回答のまま時は流れた。

 インターネットで地域活性化を図りたいと、その当時、インターネットの普及に力を入れていた県仙北地方部の方に相談した。「インターネットで新聞。伊藤さん。それこそ、そういう人が出て来ないかと待っている人たちがいるんですよ」と時を得たように手で膝を打った。「待っている」というのは田沢湖町の「わらび座」を拠点とした「たざわこ芸術村」の「デジタル・アート・ファクトリー」だった。長瀬一男さんをチーフに、コンピューター技術者として活躍する海賀孝明さんとの出会いはこうして始まった。

 「インターネットで新聞をやるんですか。面白い。それこそ待ってたんですよ」。長瀬さんも海賀さんもインターネットの「理想的な使い方だ」と全面協力を買って出て、技術的な面では海賀さんがサポートしてくれることになった。11月から海賀さんの元へ週1回から2回通って、ホームページ作りの準備と記事の更新の仕方などを学んだ。

 一方では表紙のデザインなどは千畑町で広告代理店を経営しているグラフィックの高橋成人さんが格安で引き受けてくれた。順調な滑り出しだと思ったが、肝心要の本人が着いていけない状態となった。海賀さんから教えられた記事の更新の仕方などの知識は家に帰るとすっかり空っぽとなり、パソコンに電源を入れ、復習しようとしても再現しない。頭はパニック状態となり、電話で海賀さんに聞こうとしてもその言葉さえ浮かんで来ない。何度、チンプンカンプンな問い合わせの電話で迷惑をかけたかは計り知れない。

 それでも11月末にはほぼケンニチの紙面は出来上がり、12月1日にはスタートしようとなった。その日、海賀さんのいるプロバイダー「きたうら花ねっと」のサーバーにケンニチは接続され、たった一人のインターネット新聞はデビューした。当時のアクセス数は1日で80件とか100件前後だった。それでも嬉しかった。誰にも縛られず自由に書ける理想の新聞を手にした喜びがあった。

 毎日の作業は孤独で不安だったが、海賀さんらの支えをテコに「ニュース」の更新に努めた。そうした孤独感を救ったのが、県内外や海外から届く読者からの応援のメールだった。アメリカやハワイ、イギリス、マレーシア、アラスカなど世界各地からケンニチへの応援のお便りが届いた。インターネットのすばらしさを実感する日々が続いた。

 ケンニチをさらに充実させてくれたのはアメリカの岩間さんやシンガポールの柳千賀子さんといった海外在住者からの寄稿だった。海外の読者からのレポートはケンニチを国際色豊かな紙面にした。こうして96年12月1日にスタートした新聞は翌年の3月21日にはアクセス数1万を記録した。ほぼ4カ月かかっての1万だった。そして98年6月26日には待望の10万を記録。その1万と10万ヒットを祝ってくれたのも長瀬さんや海賀さん、それにケンニチを通じて知り合った多くの友だった。

 だが、アクセス数は伸びても無収入のままのインターネットの運営は辛かった。取材に走り、記事を更新する毎日の努力が徒労に感じられた。空しく日々が流れた。そうしたケンニチに声を掛けて下さったのは角館町の「おおさわ胃腸科内科クリニック」の大澤先生だった。「伊藤さん。広告のない新聞は社会的に認められないことになる。うちの医院の広告を掲載して構わないよ」と救いの手を差し伸べてくれた。それからまたしばらく経って、「ケンニチにバナー広告を掲載するというのは大曲仙北だけでなく、海外にまで企業イメージを売り込める」と「秋田清酒」さんがバナー広告の掲載に応じてくれた。そして「あんだんて」さんや「大同衣料」さん、「伊藤不動産」などの広告の掲載となった。こうしてケンニチは少しずつだが、経費をまかなえるほどの収入が入るようになった。

 お金を稼ぐ喜びだけでなく、生涯忘れられない思い出もケンニチは残した。ケンニチ25万ヒットを記念して、読者の方々が企画した西木村での「空飛ぶケンニチ」だ。ケンニチの「25万ヒットを記念して読者、みんなで紙風船をあげませんか」と秋田市の主婦の方と角館町の読者が呼びかけた。オリジナルの紙風船を西木村の方から作ってもらうには1個当たり5万円の謝礼が必要だった。

 二人はその5万円に向かって「空飛ぶケンニチ」のホームページを作り、募金活動を始めた。5万円なんて集まるとは思っても見なかった。足りない分は「ケンニチが負担すればいい」とその行方を見守った。だが、二人から入った募金額の最終報告は海外も含め、全国から62人の応募があり、想像さえ付かなかった「19万5000円」もの金額となった。

 こうして2000年2月10日夜には西木村の冬祭りで、「秋田県南日々」の名前と募金を寄せた方々の名前が書かれた3個の紙風船が夜空に舞った。静岡や東京などからも多くのケンニチファンが会場に集まった。忘れられない思い出の夜となった。

 ケンニチはその後、1日のアクセス数は1100件を超えるまでになった。10日で1万件以上ものヒットを記録するメディアとなった。そして昨年6月8日には50万を記録した。100万という途方もない記録も目の前に迫った。

 12月1日。ケンニチは6歳の誕生日を迎えた。海賀さんからは、それを記念してケンニチの記事が携帯電話の「iモード」からも読めるようにしたと嬉しいプレゼントがあった。ケンニチはこうしていつも、誰かからの「手助け」を受けている。温かい支援を受けている。みんなに支えられながら6年の歳月を歩んできた。ありがとう。