食べ物の好みは齢とともに変化するようだ。先日、スーパーに買い物に行ったら、なぜか梅干しが食べたくなった。あの真っ赤な梅干しではなく、橙色をした紀州は和歌山産の甘酸っぱい梅干しだ。そのスーパーでは何でも大量に品を置くのが特徴のようで、梅干しのケースを山と積んでいた。もしも、商品陳列棚にきちんと、しかも上品に並べられただけなら多分、見過ごしただろうし、食べたいとの嗜好も起きなかったかもしれない。
山と積まれたのが良かった。まるで「私たちを連れてって!」と叫んでいるようにさえ思えた。その願いを聞き入れて買い求めることにした。妻は「おや!。珍しいことを」と言いたいような顔をして「食べてみないと味が分からないから、小さいケースの方にしたら」と大きなモノに手を付けたがるこちらの意図を見越して、大小二つのケースから小さなものを選んだ。夕食時、そのケースを開けてつまんだ。「オッ。これはうまい!」。思わずうなった。ビール、そしてお酒のつまみにピッタシな味だった。
子どものころ、母が漬けた梅干しと言えば顔中がクシャクシャになるほど酸っぱくて、口にするのは苦手だった。それにあの毒々しいほど真っ赤な色でしり込みし、つまんでみようとは思わなかった。だが、ご飯に熱い湯を入れて細かく切り刻んだ梅干しで食べたあの味は良かった。口中に甘酸っぱい味が広がって、とても幸せな気分にさせた。おにぎりもそうだった。遠足の時に母が握ってくれたおにぎりには必ず梅干しが入っていて、梅干しの甘酸っぱさがおにぎりの味を盛り上げ、とてもおいしかった。だが、梅干しを単独で口にするのは苦手だった。だから「梅干しなんて」と振り向くこともなかった。
なのに今はその梅干しがなければ晩酌は落ち着かなくなった。先週の金曜日からこの月曜日までの4日間、妻は実家の母を連れて大阪の妹夫婦の所へと行ってきた。短大を卒業した妹の娘さんもとうに成人し、今は大阪のレストランの厨房で働いているとか。料理を作るのが大好きで、そう言う職場で働きたかったと憧れて就職した。その可愛い孫の働いている姿を見せたいし、見てもらいたいと妻は「多分、母が大阪へ行けるのはこれが最後になるだろう」と言いながら、80歳近くなった実家の母を連れて大阪へ行った。
こちらは梅干しと豆腐を中心とした酒のつまみで月曜日までの4日間を過ごした。いや大阪へ旅立つ前の夜に妻は初めて「キムチ鍋」という料理を作ったので、その晩も含めて都合3日間も続けてキムチ鍋を食べた。さすが3日目となると鍋にも閉口したが、梅干しが刺激となって晩酌を楽しめた。
スーパーで初めて梅干しを買い求め、その味が気に入った今では梅干しと豆腐さえあれば晩酌のおかずに不足はないとさえ思っている。仕事の関係で数年前から留守にする日が多くなった妻。このごろではそうした家庭のサイクルにも馴れ、一人で夜食を用意しているが、そのメニューといえば冬は湯豆腐にコロッケ、夏は丸豆腐の冷や奴にトマトとかハムをエネルギー源にし、それに野菜サラダという単純なものだった。今度からは梅干しが一つ加わった。
「お酒はぬるめの 燗(かん)がいい 肴はあぶった イカでいい」と歌ったのは八代亜紀だった。こちらは「お酒はぬるめの燗でいい 肴は紀州の梅でいい」である。その梅干しも妻が大阪に行って3日目の夜には底を突いた。「さて困った。今夜は梅干しなしでやるか」と思ったが、どうも寂しい。近くのスーパーに買いに走ったが、同じ紀州の梅干しでも味が微妙に違った。まろやかさがないのである。仕方がないので翌日再び、今度は市内のスーパーで梅干しを探し、お気に入りのを買い求めた。しかし、前の日に買ったものを捨てるわけにはいかない。2種類の梅干しを食卓にあげ「こっちはうまい。こっちはそうでもない」と交互に食べている。もはや梅干しなしではお酒も呑めないほどなのだ。
その梅干しを大阪に行っていた妻も「お土産に買ってきたよ」と旅行ケースから取り出した。嬉しかった。それも紀州産の梅干しだった。一個つまんだが、味も上々だった。
大阪では関西国際空港まで妹夫婦が迎えに来てくれたという。そして「おばあちゃんに会いたかった」とその娘さんもレストランの仕事を休んで迎えに来てくれたと言う。その晩は妹のだんなさんの計らいで和歌山県白浜温泉に宿泊。「とてもごちそうになったし、楽しかった」と帰ってきた妻はお土産話に弾んだ。大阪ではその娘さんが働いているレストランも見学。職場の同僚たちに「秋田のおばあちゃんとおばさんです」と楽しそうに紹介してくれたとか。その話を聞いていたら、ふっくらとした可愛い姪っ子の笑顔が目に浮かんできた。
京都にも足を伸ばして清水寺や知恩院、舞子さんたちが住んでいる街通りなども見学したとか。実家の母にとって今回の3泊4日の旅は抱えきれないほどの思い出が刻まれたようだ。関西国際空港から帰途に就く時には妹夫婦と娘さんも見送りに来てくれたが、妻も母もそして大阪の3人ともつい涙ぐんでしまったとか。こちらはそうした妻の話に「ウンウン」と耳を傾けながら、お土産に買ってきてくれた梅干しにばかり目が行っていた。
さてその梅干し。昔から健康にいいとは聞いている。図書館でちょっと調べただけでも「梅」の効能に関する本が結構あった。
社団法人「農山漁村文化協会」刊の「健康食『梅』」=中川紀子著=では「梅干しで朝茶をいただくという日本人のしきたりには、大きな意味があります。朝という空腹時に、クエン酸を胃や小腸に送りこむことによって殺菌、滅菌作用を効果的にし、梅に微量あるピルビン酸は内臓の諸器官に活を入れるというはたらきをもっています。(略)小さな梅干しですが、私たちの健康に欠かせない貴重な存在です」とある。
梅干しを食べ始めたこのごろ。急に元気が出たというわけではないが、何となく死ぬまで長生きしそうな気分だ。今夜も梅干しでいっぱいやろう。読者の皆さま。でも飲み過ぎには気をつけて。