酒はほどほどに─。元日の朝、さあ新しい年を祝おうとコップ酒を冷やでグッと2杯、飲んだ。「ウーン。うまい」とのどを鳴らしたが、大晦日に「紅白歌合戦」を観ながらチビリチビリと夜遅くまで飲んだ酒がまだ残っていた上に、朝になって再び酒を受け入れた胃腸の方はさすがにこたえたようだ。その日の午後からギリギリとした胃の不快感が高まり、後悔した。酒はやはりほどほどにと思った。とにかく正月の時間は穏やかに流れ、胃腸を労りながら人並みにめでたさを祝った。この一年、よき年であることを祈りたい。
新聞記者にとってカメラはペン同様、大切なものである。駆け出しの時には先輩記者から中古のカメラを預けられ、写真の撮り方に馴れるまでそれを使った。今のカメラのように露出計などという便利はものはなく、感でシャッター速度と絞りを決め、ピントも手動で合わせて写すいわゆる職人技を要するカメラだった。天気のいい時は絞りを8とか11にし、シャッター速度は120分の1秒とか、250分の1秒を選んで写した。室内では絞りをF5.6とかF4とかにし、シャッタースピードは60分の1とか30分の1とかを選んだ。
そして現像して「露出オーバー」とか「露出不足」とかを頭にたたき込み、どんな光りの状態でも写真が撮れるように訓練したものだった。先輩記者が貸してくれたカメラはレンズ交換も出来ない旧式のものだった。しかも底蓋式のもので、フイルムを装てんするにも馴れるまではかなり手間取った。それでも取材に行って写真を撮り、暗室に入って現像が仕上がったフイルムを見るまではドキドキしながら写真の写りを楽しんだものだった。
カメラ屋に行くと露出計内蔵で、しかも広角から望遠レンズまで交換できる一眼レフのカメラが店頭に飾られていた。まるでカメラの王者のような風格に見えた。そのカメラが欲しくて、何度も何度もその店の前を通っては値段を確かめた。しかし、何度見ても「自分の給料ではとても買えそうもない」と高嶺の花に諦めるしかなかった。当時の給料は1カ月働いて1万4000円ぐらいだったと思う。だが店頭に飾られた「ニコンF」という名機中の名機と言われたカメラは当時、ボディだけでも7万円代もし、とても買える代物ではなかった。しかも、そのカメラには露出計は付いてないで、露出計付きのファインダーは別売りだった。
露出に関しては大体の感で撮れるまでなっていたので、むしろ露出計なしのカメラこそ職人技を誇れると「ニコンF」に憧れた。その上「ニコンF」は報道カメラマンの象徴的なカメラでもあった。そのカメラを手にしたい。それが念願だった。何年経ってからだろう。そのニコンFを買い求めたのは─。50ミリの標準レンズと28ミリの広角レンズ、それに105ミリの望遠レンズを買った。確か結婚してからだった。きっとかみさんの援助もあって買えたものだろう。結婚しても給料はまだ5〜6万円ぐらいのはずだった。交換レンズを含め3本のレンズとカメラ本体を合わせると多分、20万円近い値段だったと思う。(読者の皆さま、値段が間違っていたらごめんなさい)
夢がかなったと喜んだ。ニコンF。切れ味のいい独特のシャッター音がした。そのカメラを手に北海道へと妻と旅をした。もう30年も前の話である。青森港から青函連絡船に乗っての一週間の旅だった。深夜の青森駅、津軽海峡、昭和新山、洞爺湖、網走刑務所、知床半島、オホーツクの海などを歩き白黒のフイルムに収め、自らの手でプリントし、アルバムに飾った。今もそのアルバムは大切に保存しているが、北海道では当時の「国鉄」が激しい春闘をやっている時期で、駅で見かけたSL列車には真っ白なペンキで「団結」とか「春闘勝利を!」などの文字が大書きされていた。とにかくニコンFを手にいろんな写真を撮って記録した。
カメラは仕事がら、大事にしてきた。しかし、変な職業意識があって、カメラはいつも裸にして持っていた。革のケースに入れるなんてダサい。そんなプライドがあった。
だから、カメラのボディはぶっつけたりしてあちこち傷だらけだった。しかし、その傷さえもプロ意識を刺激する勲章でもあった。ニコンFの頑丈なボディは、そうした乱暴な扱いにも耐えた。だが、カメラをいくら乱暴に扱っても落としたことはなかった。カメラを手に酒を飲み歩き、自分を忘れてもカメラを忘れたことは一度もなかった。
「ニコンF」は2台使いこなし、さらに「ニコンF2」に切り換え、そして「ニコンF3」も使った。このニコンF3でフイルムを入れる自分のカメラの歴史は幕を閉じた。デジタルカメラが登場し、インターネット新聞が始まったからだ。しかし、デジタルカメラの時代に入ったからとは言え、ケンニチがスタートした96年の暮れはまだニコンF3とデジカメの両方を使っていた。当時のデジカメの解像力ではプリントしてもとても印刷原稿にはならなかったからだ。
その後、パソコン業者からオリンパスのデジカメが提供され、それをしばらく使った。しかし、そのカメラでさえもまだ画素数が足りず、印刷原稿としては使えなかった。やっと印刷にも耐えられるようなカメラを手にしたのは2000年8月だった。「ニコンクールピックス990」を買い求めた。画素数334万で、待望のズームレンズが内蔵していた。ストロボなどの機材も入れて15〜6万円だった。
これは大事に使おうと思った。大事にとは「落としてはならない」である。デジカメを手にして分かってきたのは、ショックにかなり弱いと言うことだ。カメラの扱いは相変わらず乱暴な方だが、まず基本である「落下」だけは注意した。ところが、デジカメはそのカメラ自体が軽く出来ているため、肩につり下げていてもつるんと滑り落ちてしまう。それだけに持ち歩く時は注意していた。だが、昨年暮れにとうとうそのカメラを落としてしまった。肩からツルリと滑って地面にガシャである。「しまった!」と思ったが、後の祭だった。
それでもコンクリートに直接、落としたのではなく柔らかな土の上だったから大丈夫だろうと思っていた。だが、確認してみるとモニター画面のズームは動いても、ファンダーのズームは作動しなくなった。モニターが動くからいいかと思ったが、風景など明るい屋外で写真を撮ろうとすると光りの反射でモニターの画像はほとんど見えない。ズームレンズを動かしても映像がどんなふうに切り取られるのかほとんど判断できなくなった。
修理に出そうかと思ったが、その間はカメラなしの状態となる。ケンニチは映像あっての新聞だ。仕方ない。カメラを新しくしようと決めた。経済的に余裕があるわけではないが、毎日のように使っているカメラだ。古いカメラは修理して補助用にすることにした。 新しいカメラもニコン製品を選ぶことにした。買い求めるならできるだけ地元のお店を選ぼうと思って、昵懇にさせてもらっている大曲市の「エバタフォト」に相談した。エバタさんはキャノン専門店。ご主人の江畑徹さんと話していて偉いと思った。
江畑さんは「伊藤さん。家はキャノンならアフターの面でも万全を期せます。でも伊藤さんの使っているニコンだとパソコンとのつながりでちょっと自信がないんです。ニコンなら横手のキタムラカメラを勧めます。あすこならデジカメの面でもかなり力を入れてる店なので、アフターの面でも大丈夫でしょう」とカメラ店がいわば〃商売敵〃とも言えるカメラ店を紹介した。その度量の大きさが偉いと思った。
暮れの29日、横手市に走ってニコンのクールピックス5700を買い求めた。このカメラの魅力は何といってもそのズームレンズの性能である。広角なら35ミリ、望遠なら280ミリまで伸びる。しかも画素数も500万画素と高性能となった。その望遠レンズの性能は吹雪の日、早速、発揮してくれた。吹雪となった日中、向こうから自転車を押しながら歩いてくる女性の姿を目にした。
その光景こそ雪国の生活の厳しさを象徴する〃絵〃になると瞬間に判断し、車から飛び下り望遠レンズで切り取った。カメラマンは時にはハンターでもある。獲物を見つけたら逃さない。そんな判断力が必要だ。被写体にカメラを意識されない距離で写真が撮れる。新しいカメラに内蔵された高性能なズームレンズはケンニチの写真の表現力に新たな力を与えてくれた。だが、まだ不慣れなせいもあってかどうにも使い勝手が悪い。しかも、新しいソフトの使い方もまだ良く分からない。カメラは新しくなったが新しい苦労がまた始まった。ともかくデジカメに切り換えて今度で4台目。新しいカメラ。今度こそ落とさないよう大事にしたい。