こちら編集室「7種類の雪」(2月7日)
作家・太宰治は「津軽には7種類の雪がある」と小説「津軽」の冒頭で紹介している。 こな雪。つぶ雪。わた雪。みづ雪。かた雪。ざらめ雪。こほり雪。この7つだ。
秋田にもこの7種類の雪はある。こな雪、つぶ雪はしんしんと降って積もる雪。吹雪の日もこな雪となる。粉のように細かい雪が、空から降ってくるのではなく、横向きにあるいは足元から突き刺すように走っていく。わた雪は「ぼたん雪」とも「ぼた雪」とも言う大きな雪のことだ。この雪が降った夜は次の日の朝が思いやられる。ボタボタと天から落ちてくる大きな雪は「大雪」の知らせでもある。みづ雪は多分、水分をタップリ含んだ雨雪(あまゆき)のことだろう。屋根に積もった雪の上にこの雨雪が降るのも困る。屋根の雪をどっしりと重くし、雪下ろしを急がせるからだ。
かた雪は2月下旬から3月初めのころ、雪の原っぱがコンクリート地面のように堅くなった状態のことを言う。ざらめ雪も春先になるもので、それこそざらめを敷いたようなザラザラした状態の道を指す。まるで砂浜の砂の上を歩くようで、一歩足を進めても半歩ほど戻されるから歩くにはやっかいな雪だ。こほり雪は水分もなくサラサラと凍った雪だろう。
3日朝。そのサラサラした凍り雪が降った。積雪は数センチだったろう。小犬のパピーを抱いて外に出たら、街灯に照らされた青い雪面はまるで冬のホタルが無数に輝いているようだった。いや無数のダイヤモンドが散りばめられたような朝だった。太陽が昇るまではまだ30分ほど間のある夜の底だったが、「なんてきれいな朝なんだろう」と感動しながら歩いた。一粒ひとつぶの雪が街灯の光りを受けて淡いピンク色に輝いたり、ブルーにも緑色にも見えた。夜の底がプリズムを通して鮮やかなカラーで彩られたようだった。
1月は毎日のように降ったこな雪、つぶ雪、ぼた雪で体は悲鳴をあげた。2月になったら幾分、楽になるだろうと2月を待った。その2月に入って空からダイヤモンドのような美しい雪のプレゼントがあった。幻想的な夜の底の美しさを楽しみながら、子どものころ「かた雪」の上を歩いて小学校に通ったのを思い出していた。
今のように除雪車が走る時代ではなかった。通学路はみんなの足で踏み固められてできた「骨っこ道」とも呼ばれた狭い道だった。当時も冬の朝は集団登校制となっていて、上級生が先頭となって雪の中に一歩一歩、足を踏み入れ、道をつくりながら登校した。次の子どもはその足跡に長靴を入れて歩を進めた。その列が5人、10人となっていくと細いデコボコした道が誕生した。まるで背骨の上を歩くようなもので、凍りだすとツルンツルンと滑って、歩きにくさとゴム靴を通して伝わってくる足の指の冷たさに泣きたくなるような登校だった。
だから2月か3月になって田んぼの雪が固まり、かた雪になった時の楽しさは何とも言えなかった。普段なら雪で埋まった田んぼの上は長靴も潜って、とても歩ける状態ではないのだが、かた雪の朝は青空も広がって、雲の上を自由に飛んで歩くような気分だった。障害物がなにもなく、どこまでもどこまでも広がる平らな雪面を歩くのはとても楽しかった。学校への距離も田んぼの上を真っ直ぐに歩けばいいのでとても近くなった。ランドセルを背負いながら、自分自身が飛行機になったような気分で両手を大きく広げては「ブーン、ブーン」とプロペラの音を真似しながら走ったものだった。
かた雪の上を歩いたり、走ると「キュッ、キュッ」と鳴った。引き締まった乾いた音で「キュッ、キュッ」と鳴った。その音も心地よかった。春の音のようだった。この雪の下で春が芽を出す準備をしているのだろうと思った。どこまでもどこまでも続く雪の広場だった。
しかし、危険もあった。水路の上だ。水路の上だと雪の層も薄く、子どもの体重でも崩れる恐れがあった。学校の先生たちはだから「かた雪になっても、水路があるから田んぼの上は歩かないように」と厳しく注意した。しかし、子どもの目でもその水路はどこにあるかは見分けられた。平らな雪面の中でうねるようにくぼんでいる部分が水路になっていた。そこを見つけては危険から逃れた。
「骨っこ道」を歩くのは辛かったが、かた雪になった時の楽しさはどうしようもなかった。学校で勉強をしていても気が気でなかった。もう一度、あの雪の原っぱを走りたい。それだけで頭がいっぱいだった。しかし、放課後、そのかた雪に一歩足を踏み入れるとぶすぶすと足は沈んだ。かた雪になる朝は気温も冷え込むのだが、日中は青空となって気温も上昇し、雪を解かしたからだ。ガッカリしながらまた骨っこ道をとぼとぼと肩を落としながら歩いた。
冬の登校は辛かったが、思いやりを学んだ登校でもあった。近所にお金持ちの子でみんなに「坊っちゃん」と呼ばれた年上の子がいた。吹雪の日、その坊っちゃんはいつも先頭になって歩いた。しかも、後ろ向きになっての歩行だった。時にはマントを大きく広げて風をさえぎり、後に続くこちらをカバーするようにして「着いて来いよ。みんな、負けるなよ」と顔を真っ赤にしながら励まし、励まししながら風に向かった人だった。
製材所も経営していた坊っちゃんの家には当時は珍しい自家用車もあった。なぜかそのころはその真っ黒いボディーの車は車庫に入りっぱなしで、動いたところは見たことがなかったが、坊っちゃんの所に遊びに行くとよくその自動車に乗せてハンドルやギアを触らせ、「こんなものカギさえあったら俺だって運転できるのに」と小学生の坊っちゃんはすごいことを平気で言ったものだった。
坊っちゃんは科学が得意だったのだろう。自家製のロケットをよく作った。自宅の広い庭に雪の発射台を作っては、今で言うペットボトルのようなロケットに燃料を詰め込み、ボーンと飛ばしたものだった。坊っちゃんの部屋に入ると「カッパ2号」とか「カッパ3号」とか書いた設計図さえあった。坊っちゃんはそれを見せては「すごいだろう。絶対にしゃべっちゃいけないよ」と坊っちゃんは怖い目をしてニヤリとしたものだった。設計図というよりも今で言うイラストのような図面だったろう。坊っちゃんが飛ばしたロケットの燃料は何だったのか。今もそれは思い出せない。とにかく小学生とは思えないおもちゃのロケットを坊っちゃんは作って雪の空に飛ばしたものだった。
その坊っちゃんは吹雪の日、後ろを向きながら骨っこ道を先頭となって歩いた。マントを大きく広げ、風をさえぎり「みんな。負けるなよ」と顔を真っ赤に染めて歩いた。坊っちゃんの顔は吹雪の細かい雪で濡れ、グシャグシャだった。僕は坊っちゃんのマントに顔を埋め、坊っちゃんの腰につかまって学校まで歩いた。吹雪の日の温かい思い出だ。その坊っちゃんはいつの間にか引っ越してしまい、それから一度も会ったことはない。
4日は立春。これからは日増しに太陽の光りも伸びてくるだろう。光りの温かさに喜びを感じる。厳しい1月をやり過ごし、秋田はこれから小正月行事が始まる。西木村の紙風船あげ、西仙北町の大綱引き、角館町の火振りかまくら、六郷町の竹打ち、湯沢市の犬っこまつり、横手市のかまくらなどだ。春に向かってゆっくりゆっくり歩きだす季節の中で
幻想的な冬祭りが各地で展開される。