こちら編集室「悲しみの心模様」(2月14日)

 その日は「最悪の日」でもあった。朝、ホテルから出ようとしたら車のエンジンが掛からない。キューン、キューンとセルモーターが空回りするだけだった。逃げたいような気分でホテルを出たというのに意地悪な故障に遭ってしまった。パソコン同様、車にも全く無知な自分には手の打ちようがなかった。電話でJAFに救助を求めた。JAFのお世話になるのは初めてだった。30分ほどホテルのロビーで待機していたらJAFが駆けつけ「多分、バッテリーでしょう」とボンネットを開けて持参してきたバッテリーと自分の車とをコードで結び、眠ったエンジンを簡単に目覚めさせた。

 なるほど「BMW」も、もう乗り始めて9年にもなる。走行距離も12万キロにもなった。その間、バッテリーは一度も交換したことがなかった。JAFのエンジニアも「調べてみないと分かりませんが、そろそろバッテリー交換の時期かもしれませんね」と言う。とにかくその日は、無事に自宅までたどり帰り着いたが、やはりその翌日はエンジンは掛からなかった。近くの修理工場へ連絡してバッテリー交換を依頼した。

 その日の朝、実はとても気持ちが暗く、孤独だった。楽しいはずの西木村での紙風船上げとなるべき夜だったが、ホテルに戻ってからの男性1人と女性グループ3人との交流は自分だけが異質な存在にしか思えなかった。そのグループの人たちが悪いのではない。自分の性格がそうさせるのである。そうしたグループにとけ込めなかった自分が嫌で、悲しかった。

 以前はインターネットを通じて、とても親しくお付き合いさせてもらった人たちだ。だが、今はほとんどその4人の方との交流はない。4人のうち2人はホームページを持っていて、その「掲示板」を通じてとても親しくお付き合いしているようだが、こちらは自分自身のインターネット新聞の運営で精いっぱいなこともあって、二人のホームページに顔を出すことはほとんどない。お二人だけでなく、取材で紹介した方のホームページにさえ書き込みすることはほとんどない。そんなせいもあるだろう。4人とも自然に自分とは距離を置いたようで交流は途絶えるようになっていた。

 西木村に向かう秋田内陸線それだけに今回の西木村での紙風船上げへのお誘いを受けた時、行くべきかどうか悩んだ。相手はご好意で誘ったと思うのだが、交流がなくなったグループに果たして自分が紛れ込んでいいのかどうか、迷いがあった。ましてや自分はわがままな性格もあって、チヤホヤされているときは嬉しく、子供のようにはしゃげるのだが、対等の立場でのグループ交流となるとその中にどうとけ込んだらいいのか、萎縮してしまう。それだけに参加しても自分だけが浮き上がってしまうのではないか。そんな懸念があった。

 西木村での紙風船上げを楽しんでからはホテルで合流し、夜の9時ごろまではレストランでの夕食会となって一緒にお酒を飲んだが、一つ部屋に集まってからはその空気に馴染めなくなった。4人はホームページを通じての交流もあり、意気投合して和気あいあいとしたムードで会話を楽しんでいるようだが、そうした雰囲気が盛り上がれば盛り上がるほど自分だけが浮き上がってしまった。とけ込めない孤独感にさいなまされた。

 お誘いを受けた時から、その心配はあった。子どものころから人の群にとけ込めず、閉じこもりがちな性格である。みんなは楽しそうにそのグループ共通の仲間の女性から送られてきたテレビに登場したという時のビデオを観賞していたが、それにも縁のない自分は、その映像さえ観ているのが辛かった。ただぼんやり観ているしかなかった。

 そのグループを悪く言おうとしているのではない。とてもいい人たちの集まりなのだ。ケンニチが25万ヒットを記録した3年前には「空飛ぶケンニチ」を企画して下さって、お世話にもなっている。そうした人たちにとけ込めない自分の存在が悲しいのだ。その折り合いを付けたくて自分と向き合うと、向き合うほど孤独で切なくなった。仲間に打ち解けれなかった心のゆがみが情けなかった。疎んじられているような気がした。4人の仲良しグループの分子の中に異質な分子が一つ入ってしまったような自分を見つめた。結局はそうした空気に耐えきれず、早めに部屋に戻って本を読みながら眠った。「みんな楽しそうにしているのになぜ自分だけが・・・」。重い心のまま眠った。翌朝は早めに風呂に入って、こっそり帰途に就こうとさえ思った。

 しかし、風呂から上がると眠っていたはずのKさんも目覚めたようで一緒の食事となった。夕べは午前2時ごろまでおしゃべりに耽っていたというKさんをうらやましいと思いながら、夕べからの自分の心にあった孤独な気持ちを隠し、さりげない会話を通じ食事を進めた。遅れて女性グループも3人、テーブルについた。自分のゆがんだ心はその人たちに近寄り難いものを感じた。4人とは別なのだ。心の傷が疼き、早々に席を立って、ロビーで本を読み、タバコを吸いながら時間をつぶした。「会計を済ませたら帰ろう」。そう思っていた。

 部屋に戻るとKさんがいた。「伊藤さん。これからHさんを盛岡までみんなで見送りしながら、温泉にでも寄ろうとなったけど」と再びのお誘いを受けた。

 せっかく遠くからから来たお客さんもいる。その人のためにもお付き合いすべきかもしれないが、気が乗らなかった。それぞれが乗ってきた車は3台。5人が1台の車に乗って移動するのか、それともお気に入りの人たちが互いに分乗するのかも分からないまま、自分だけは自分の車を運転し、4人の後を追いかけることになるだろう。共通の話題を見つけれない自分は、勝手にそう決めつけてしまった。

 みんなの後を一人で追いかけていく。そんな自分を想像したら悲しくて、惨めな思いが募った。これ以上、そのグループに交じって辛い思いはするまい。「自分一人だけで、みんなの後を追ってもしょうがない。帰ります」。それだけ言って、逃げるようにそのホテルを出た。だが、エンジンが掛からない。悲しい時には運命さえも見放す。

 盛岡から新幹線に乗って帰途に就く人からは「お世話になりました」とのお礼の声が掛けられたが、それさえ自分の心には虚ろに響いた。4人グループを見送ることもなく、ホテルのロビーでJAFを待った。取り残された気分だった。過ぎ去って行く人たちの明るい声さえ耳に響くと、心の傷は深まるばかりだった。自ら求めた悲しみなのに、被害意識だけが募った。そんなふうにしか思えない自分の心の貧しさが悲しかった。4人ともいい人たちなのに。

 エンジンの掛かった車に乗り、重い心のまま帰途に就いた。途中で携帯電話がなった。車のエンジンが掛かったかどうかを心配する電話だった。幾分、救われる思いがした。しかし、もう少ししゃべりたい、この人なら自分のその日の気持ちを分かってくれるかもしれない。そんな期待を込めたシグナルを送ろうとしたが、その電話も切れた。

 大曲市内に入ると偶然に火災現場に出合った。警察官による現場検証が始まっているようで大勢の市民が見守っていた。聞くと夕べの9時過ぎの火災だったという。新聞記者に心は戻っていた。車を急いで駐車させ、カメラを手に現場に駆けつけた。警察に寄って火災状況を取材し、西木村の紙風船上げと火災の記事を書こうと思った。仕事に打ち込んで夕べから今朝までの自分は忘れようと思った。

 その記事を入稿し、メールをチェックしたら県外の方から「故郷のニュースをいつも楽しませてもらっているが」とのお礼を込めてはいるものの、その内容は落ち込んでいた気持ちをさらに追い打ちを掛けるようなメールだった。小正月行事で西木村の紙風船上げや大曲市花館の「ぼんでん」などの記事は取り上げているが、大曲市諏訪神社の鳥子舞いや綱引きはなぜ一度も取り上げないのかとのお叱りである。事情を説明する返信を出した。分かってもらえたようで、ていねいな返信メールがあった。少しは救われた。

 そして夕方になると今度はキーボードがおかしくなった。UやS、I、Oなどを押すと「うそ」にならず「4そ」、「いとう」とならず「5と6」と数字が混ざるのである。パソコンを再起動しても、キーボードのローマ字打ちなどを何度確認しても平仮名に数字が混ざる。頭が混乱し、パソコンをサポートしてくれている人に電話したが留守。携帯電話も通じない。「大変、こんな故障は初めて。どうしよう。困った」。「どんなにお金がかかってもいい。これじゃ使い物にならないから修理をお願いしてくる」と妻に言い残し、半ばパニック状態となってパソコン修理を請け負っている市内の大手電器店に走った。

 何と言う最悪の日なんだろう。なんでこうも嫌な事が次々と重なり、襲ってくるのか。車は軽四輪に乗り換え、その日の惨めな自分をのろいながら走った。カウンターで「パソコンのキーボードがおかしくなってしまったんです。急いで修理をお願いします」と頭を下げた。「どれどれ」と店員はパソコンの電源を入れた。キーボードを押した。「出す」と打とうとすると「だ4」、「出る」は「で5」と数字が混ざる。店員は「ああ。これですよ。Numlkボタンを押したんです。これを押すと数字が優先状態になるんです」と笑い、簡単に解決した。修理費を聞いたら「修理にもなりませんから」とサービスとなった。

 こうして2月10日から11日にかけての「最悪の日」は笑い話でピリオドを打った。だが、その日の夜、なんて詰まらない自分なんだろうと再び悲しみが深まった。楽しそうに盛岡へと向かったグループを思い浮かべ、それにとけ込めることが出来なかった自分を悲しんだ。二人のホームページには、自宅に着いた女性から「お世話になりました」と嬉しそうな書き込みがあった。そしてお互いに昨夜からの延長を再び、楽しんでいるようだった。

 「やはり行くべきではなかった」。急激な疎外感が募った。ホテルのレストランでの飲みものは、喜んでもらいたい一心でケンニチ個人が負担した。そのことでとやかく言うつもりは毛頭、ない。二人のホームページには感謝の書き込みがあっても、こちらには音沙汰なし。それがとても残酷で、冷酷な大人のゲームの仕打ちに感じた。二人のホームページを通じての言葉のやり取りに、やりきれなさが募った。深く傷ついている存在には誰も気づかず、無邪気に喜んでいる。そうしたゲームのやり取りにひどく疎ましさを感じた。ケンニチはその程度の存在だった。後悔と悲しさが募り、その夜は眠れなかった。

 夜の闇で何度も寝返りを打ち、嫌な自分を見つめた。傷ついた自分を闇の中でジッと見つめた。子供のころからグループ行動は苦手だった。その仲間にとけ込めず、学校からの帰り道は一人で雲の流れを見つめながら帰った。夜の闇で、あのころとちっとも変わらない自分を思い出していた。自分で自分の心を傷つけていく。どうしようもない自分を見つめた。

 4人グループが輝かしかった。孤独感が夜の闇で苦しいほどの残像となった。どうしてこのような人たちと知り合ったのか。本当にいい人たちなのに─。そうした人たちと知遇を得たことさえ怨んだ。悲しい自分を見つめ、それにどう心の折り合いを付けたらいいのか。悲しみをさらさなければならなかったことを4人のグループにお詫びしながら、擱筆する。ケンニチはこうした弱い人間なのである。悲しさは悲しみのまま、向き合うしかない。傷ついた自分の心模様を見つめるしかない。4人のグループが悪いのではく、自分が悪いのだ。

 「ここを過ぎて悲しみの市(まち)。友はみな、僕から離れ、かなしき眼もて僕を眺める。(太宰治・道化の華より)。友を失った悲しみばかりが残った。疲労とむなしさだけが残った。(これを読む読者がいたらお断りしたい。決して、4人グループに悪意を持って書いたのではない。その人たちの楽しさの中にとけ込めない自分が悪く、悲しかっただけだ)。