こちら編集室「春の夜明け」(3月28日)

 東山が優しい青色となって、心安らぐ白い雲と青空が見られる季節となった。まだ残雪があって風は冷たいが、もうキッパリと冬はその幕を閉じ、喜びの春が来たのを感じさせる。小犬のパピーを連れた朝の散歩に「運動不足を解消したい」と妻も同行するようになった。午前5時半ごろに自宅を出て、横手川を渡り、真っ直ぐに東山に向かって歩く。紫色にもやった東山は墨絵のように遠くに堂々とたたずんでいる。朝日が昇る直前の東山の空は紫色から次第に桜色へと染まる。黄金色の光りが山の稜線から顔を出し、当たり一面に大きな光芒を放つ。日の出。その光景はいつ見ても荘厳だ。凛とした朝の空気を生まれたばかりの太陽の光りが和ます。昇る朝日を眺めながら歩く朝の散歩はささやかな「し・あ・わ・せ」を感じさせる。

 帰り道は朝日を背に真っ直ぐな道路を歩きながら自宅を目指すため、道路には妻と自分とパピーの長い影が落ちる。その影を追いながら子どものころ、満月の夜には「影踏み」という遊びがあったものだと思い出した。夕ご飯を済ませ、一段落すると誰ともなく表に出て大きな月を眺め、その月が落とす人影を追って遊んだものだった。影を踏まれた仲間は今度は鬼となって相手を追う。まだ車の時代でなかった当時の道路は舗装さえされてなかったが子どもたちの天国となり、楽しい遊び場となった。

 読む本を司馬遼太郎に切り換えた。憂鬱な自分から抜け出したい。それには司馬さんの本が自分には合っている。そう思った。時代物、特に幕末の動乱期を舞台にした司馬さんの小説はいつ読んでも痛快で、心弱った時の妙薬だ。新潟は長岡の小さな藩を背負って戦(いくさ)になるのだけは避けたいと武士の誇りも意地も棄て、地を這うような努力をしながらも増長する官軍側の無理難題の押しつけに「戊辰の役」最大の激戦を演じた河合継之助を描いた「峠」は過去3度読み返し、その都度、新たな感動に浸ったものだった。そして勇気を与えられ、弱った心の薬にもなった。

 東山からの昇った朝日さすがに今度は読む気になれず、図書館で司馬遼太郎全集をめくりながら、まだ読んでなかった「十一番目の志士」を手にした。小説はその最初の出だしが常にモノを言う。新聞記事もそうだが、リーダーをどうまとめるかでその記事が最後まで読んでもらえる「いい記事」になるかどうかの決め手になる。

 川端康成の小説「雪国」、「伊豆の踊り子」はその点で出色の名文だった。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった」、「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた」。短文で詩のように綴った「雪国」、つづら折りの峠と密林を白く染めた雨の様子をまるで絵のように描いた「伊豆の踊り子」の出だしの文は鮮烈な記憶として残った。

 「十一番目の志士」の出だしも司馬さんらしい見事さだなと感心した。

 「花が散って、海が碧(あお)くなった。この季節から長州萩の指月(しげつ)城のむこうの海は、群青をとかしたような、ほとんど信じられぬほどの碧さを湛える」で物語は始まった。「花が散って、海が碧くなった」。この出だしの文の見事さはどうだろう。リズム感のある文章の流れに引きつけられ「これを読もう」と手にした。リーダーの一文が小説のドラマを大きくうねるらせるような感じを与えた。

 主人公は長州藩の〃人斬り晋助〃とも言われた天堂晋助である。貧しいが、宮本武蔵の養子・伊織から直伝といわれる「二天一流」の兵法を代々、相伝されてきた家柄の生まれである。幕末の風雲児とも暴れん坊とも比喩された高杉晋作に拾われ、その運命を高杉に預け、人を斬った。その剣さばきは鬼神とも言われた。捕らわれの身となった高杉を救助に向かった晋助は高杉が3度まばたきする間に5人を斬り捨てる。神業としか言えない剣の腕である。

 山県狂介(有朋)が登場し、桂小五郎、新撰組の近藤勇、土方歳三が登場する。坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟など幕末のきら星的な英雄豪傑たちが次々と登場する。彼らの言葉と息づかいを小説の中で感じるだけで嬉しくなった。爽快な気分となった。幕末に活躍した人斬りと言えば陰湿で悲惨な運命をたどり、その死も哀れだが、天堂晋助は運命にもてあそばれながらも数えきれないほどの人を斬り、修羅場を駆け抜けた。

 晋助に斬られた武士には、かつて仕えた長州藩名門の武家の娘・栗屋菊絵の婚約者もいる。菊絵は婚約者を斬った晋助を追って「仇討ち」の旅に出る。晋助を心底憎しと思いながらも、どこか憎みきれない。結局は抗いながらも晋助に体を許す仲にもなる。お里、お弥寸、おのう。多くの女との出会いもあった。しかし、人を斬るのを「おれはいわばこの道(人斬り)の職人だぜ」と言い切るように晋助は女を抱いてもどこかで冷めている。

 晋助と共に追手の手に囲まれ、絶体絶命の危機を迎えながら「一緒に死にたい」と願う女におのうがいる。晋助は「ふざけるな」と悲鳴のように言う。晋助にとってつねに女ほど分かりにくい存在はないと司馬さんは書く。「このおのうにいたってはまるで見当もつかない。なるほどこの素人宿に二十日いた。そのあいだにごく日常的な、たとえば味噌汁でも飲むようなかっこうでこの女と体のつながりができたが、かといって色恋沙汰でもないことはこの女が一番よく知っている。であるのに、この正念場になってから相対死(あいたいじに)をする男女のようなことを口走りはじめたのだ」とも書く。
 「味噌汁でも飲むようなかっこうで女と体のつながりができた」。司馬さんのこの表現力には参った。司馬さんが小説の舞台で描く男と女の濡れ場シーンはいつも淡々としている。情感で描くのでもなく、なぞるように具体的に描くのでもなく、文章の前後で読者にそのシーンを想像させるのがうまい。しかし人斬り晋助を主人公としたせいか今度の「十一番目の志士」は痛快だが、読んでいてもそれほど心に残らない。ただ物語の展開に夢中になれただけ救いだった。弱った心にしみ込む薬のように、少しでもその痛みを忘れさせたのが救いだった。

 それにしても人を斬るサムライの精神とはすごいものだと思う。「死にたくないから人を斬る」と言い切ったサムライの言葉が思い出させる。イラク戦争が始まった。テレビではその戦場の生の現場が映し出される。武器を手に砂漠に身を伏せ、射撃する英米軍の兵士の姿がテレビに映し出される。彼らも「死にたくないからイラク兵を撃つ」の心境だろう。今度の戦争を巡っては世界中に反戦の声が広がっている。ネット上ではブッシュ大統領を「単なる極悪人」と批判する書き込みも目にした。「愚か者」と愚弄する書き込みもあった。

 戦争反対の声を挙げるのは分かるが、戦争をしなければならないと決断したブッシュ大統領を単に「極悪人」と決めつける声には疑問を感じた。愚か者と愚弄する声にも疑問を感じた。誰が好きこのんで自国の若者を戦場に追いやるリーダーがいるだろうか。ブッシュ大統領も悩みに悩み、苦しんだ上での結論だったと思う。それを単なる「極悪人」「愚か者」と決めつけたのでは気の毒だ。誰だって戦争よりは平和を望む。アメリカもイギリスもイラクの大量破壊兵器の破棄に向けて長い時間をかけて外交努力を重ねた。その努力が足りなかったかどうかは分からないが、戦争を始めたブッシュ大統領もブレア英首相も心を痛めた上で決断を下したものと思う。最後通告を宣言した時のブッシュ大統領の眉間に刻まれた深いシワが印象的だった。

 イラクとの戦争はどうなるかはまだ見通しもつかないがアダム・フセイン大統領も意地を通して戦いに臨んでいるのだろう。戦争に向かわなければならなかった英米軍。その戦争の犠牲となる国民は本当に気の毒だ。憎しみ合い、命と命の奪い合い。悲惨な戦場の生の映像がテレビに映される。戦争を命懸けで追い、報道するカメラマン、記者たちの勇気と使命感にも驚く。戦争はどんな形で終結するかは分からないが、せめても祈りたいのは犠牲になる民衆が少ないことで済むことだ。イラクとの戦争が単なる憎悪で終わらず、平和とはどう築くべきか。そうした21世紀の「平和」への貴重な教訓となることも祈りたい。春の夜明け。戦場とは遠い世界で生活し、朝の散歩を楽しめる幸せをかみしめたい。