こちら編集室「スイセン咲くころ」(4月18日)

 スイセンが咲き出した。我が家の庭にも、そして毎朝の散歩道にも黄色いスイセンが開花し、早春の大地を鮮やかな黄色で彩っている。随分、古い話だが、九州や関西の方から雪国・秋田に配属された全国紙の記者の中には一冬過ごした秋田の雪の多さに閉口し、やっと迎えた4月になっても田んぼに残る雪を見ては「この雪は本当に消えるの?」と不安そうに尋ねたものだった。話に聞いていた以上に雪深い大曲市で過ごした暗い冬の記憶が不安をかき立てたものだろう。「ええ。消えますよ」。自信を持って答えても、田んぼに残った雪を見てはため息をつき、信じられないような目でこちらを見たものだった。

 まだ自分が20代のころはそうした全国紙の記者たちから学ぶことが多く、毎日のように大曲市役所の記者室に通って、そこでほぼ半日を過ごした。秋田魁新報社は今もそうだが、大曲支局に二人の記者を駐在させている。そして当時は朝日、読売、毎日、産経、それに仙台市に本社のある河北新報、さらにNHKの記者がいた。今は魁と読売だけが大曲市に残っているだけだ。

 当時もそうだが事件や事故なんて滅多になく、平和な日々が続いて、取材するネタに事欠くと記者たちはその暇な時間を記者室で過ごした。メンバーが揃うと自然にマージャンテーブルを囲んだ。勤務中のマージャンなんて今なら考えられない時代だが、当時はどこの記者室にも「娯楽用」にとマージャンがあり、それで遊ぶのも記者たちの〃特権〃のようになっていた。

 「伊藤ちゃん。遊んでるんじゃないよ。マージャンをやって、仲間をつかまえておくということは特ダネを抜かれる心配がないということだからね」。自分に記事の書き方の要点を教えてくれた全国紙の記者たちはそのような理屈を述べてはマージャンに耽り、いつの間にか自分もその仲間の一員となって、昼ごろから夕方までほぼ毎日のように遊びに凝ったこともある。

 そうした遊びの合間に彼らは「秋田の春はいいなー」ととても感動した。なぜなら秋田は雪が消え、スイセンが咲き出すと梅も咲き、コブシも咲き、そして桜も咲き、少し遅れてリンゴの白い花が咲く。それこそ百花繚乱の季節となるからだ。色のない季節が一気に色づき、華やぐ。そうした秋田の山を彩り、街を色彩いっぱいに染める草木に彼らはとても感動した。

 マージャンをやっていても彼らの言葉からは学ぶものも多かった。それは取材の感であり、言葉の表現力だった。そして仲間意識も高まった。親しくなればなるほど彼らは原稿の書き方、取材の仕方、さらにはそれまで経験した様々なエピソードも語って聞かせた。駆け出しの記者にとってベテラン記者の話は興味深く、勉強になった。「一緒に行くか」と取材に連れていく時もあった。いわば取材の実習を体験させようとしたのである。その取材方法、要点を真剣になって盗んだ。会社は人手が足りないという事情もあって、自分を教育している時間もないことから記者室で過ごすことも、マージャンをやることにも黙って目をつむった。

 マージャンの後は酒に誘われ、飲食店街を飲み歩いた日々もあった。まだそれほどの給料をもらってなかった自分に気づかって、飲み代のほとんどは先輩記者たちが「伊藤ちゃん。心配するな」とマージャンで稼いだお金を一夜で流した。飲み出すと自分の行く末を心配してくれる言葉も飛び交った。「伊藤ちゃん。地方記者として採用される道もあるから頑張れよ」。大手新聞社への道を真剣に考えてくれた先輩記者たちだった。

 ある事件で先輩記者たちが亡くなった方の顔写真を手に入れるのを苦労している時、運良く自分がそれを手に入れ、提供した時だった。それは真冬の出来事で、冷たい雄物川に幼い子を抱いて母子心中を図るという悲しい事件でもあった。こうした悲劇が起きると亡くなられた方の「顔写真」は記事の内容以上にモノをいい、各社ともその顔写真を手に入れるため躍起となった。世話になっている先輩記者と亡くなった方の家を訪問し、「ご冥福を祈り、二度とこのような悲しい事件が起きないよう報道したいのでどうか写真があったら貸してもらえないか」と言った矢先に「今はあんたら新聞社を相手にしている暇もない」とけんもほろろに追い出された。

 結局、心中した母子の近所や親類縁者を手分けして探し回った。アルバムを見せてもらい、記念写真の中から亡くなった方を探そうとしたがみつからない。八方塞がりとなっていた時に運良く自分がその写真を手に入れた。世話になっているお礼も兼ねて写真を提供したら「伊藤ちゃん。助かった」と喜ばれ、それからしばらくして「伊藤ちゃん。君の新聞記者としてセンスを社の方に話したら、支局長が会ってみたいと言うんだ。どうだ・・・」と具体的な話が飛び込んだ。

 ちっぽけな地方紙の記者から全国紙の記者へと夢が一気に膨らんだ。その夢を抱いて家に帰り、父と母に夕食の席で報告した。しかし、今の新聞社に入った事をとても喜んだ父と母だったが、その話を聞くと顔を曇らせ、「マア。大きな新聞社に入れば、ここに居られなくなるべ」と寂しそうな口調で答えた。老後は自分にすがるような生活を送っていた父と母だった。

 長男夫婦に家を出られ、その後を継いだ兄にも失敗し、行商を通じてやっと高校に進学させた父と母は頼れるのは「末っ子しかない」と口癖のように言っていた。雨の日も、風の日も、雪降る日も、自転車で行商に出た父だった。母は朝から晩まで縫い物をし、父の稼ぎの足りない分を手職で補った。〃櫛風沐雨(しっぷうもくう)〃の日々を重ね、高校を卒業させた父と母だった。そうした姿を見ている。「マアも居なくなるのか」。二人の弱々しい言葉が胸をえぐった。その寂しそうな顔と言葉に「家を出る」とはとても言えなかった。

 せっかくの話を持ってきてくれた先輩記者、と言っても親子ほど年齢の離れた方だったが「そうか。家庭事情があるなら仕方ない」と残念がった。間もなくその先輩記者も大曲から離れた。スイセンが咲き出す季節になっていた。旅立つ日、通信局へ足を運んで見送ったら「伊藤君。お世話になった。君にもいろんな所を歩いてもらい、取材させる経験をさせたかった」と鼈甲(べっこう)のメガネの奥の目を幾分、潤ませた。白髪が似合う親切で、優しい人だった。

 入社して数年経っても「まともに書ける記事は交通事故か事件ものしかない」と会社の先輩記者からぼやかれた事もあったが、一般の話題記事も要領よくまとめられるようになると「うーん。いい記事だ。良く書いた」と褒められるようにもなった。

 書いた原稿はデスク役の先輩記者に目を通してもらい、赤ペンで削除され、書き直された。100字詰めの原稿用紙で30枚も書いた原稿も削除されると半分以下にも減らされた。原稿は赤ペンで真っ赤になった。それを手に再び自分で書き直し、なぜ削られたかを学んだ。削除される事で自分の書いた記事も骨太となって読みやすくなった。会社の先輩記者から褒められるようになれたのも記者室で全国紙の記者たちと遊び、学んだおかげだった。
 あれからもう、30年近くもの歳月が流れた。お世話になった先輩記者たちからは、定年退職を知らせるハガキがここ数年、毎年のように届く。同年代だった記者からはつい先日、「編集局長」就任の挨拶状も届いた。原稿に向かう自分を「ライトマシーンのように書きますね」と良く冷やかした記者だった。大きな特ダネをモノにもした敏腕記者でもあった。夜の街を二人で息を切らして走りながら、はしご酒を楽しんだこともあった。定年退職した記者たちの多くが「大曲での生活が一番、懐かしい」と訪ねて来ては自分に声をかけてくれた。

 中には東京本社勤務時代、宗教担当となって仏教の取材を通じてご自身もお坊さんになった方もいる。大曲時代、その人にマージャンでとんでもない「役満」を振り込んだ記憶がある。それが切っ掛けで一番の仲良しになったのだが、「伊藤君はいつも気になる存在だよ」とこれまで3度、訪ねてきてくれた。午前1時過ぎとか2時過ぎに酔っぱらった勢いで電話でたたき起こし「俺だよ。オレ。分かるだろう。おい伊藤君、元気か」と消息を尋ねた後、「もう俺たち古兵はやってられないよ。原稿はパソコンで打て、写真はデジカメで撮れなんて言われても、この歳じゃ伊藤君、そんなもの覚えられるはずないだろう」とぼやいて「やんなっちゃったよ」と嘆いては「じゃあな」と切る。

 いつまでも大曲を懐かしがってくれる先輩記者たち。定年退職しても「いつかまた大曲に遊びに行くからね」と挨拶状にひと言、書いてくれる全国紙の先輩記者たちの心遣いが嬉しい。道端では今朝もスイセンが明るい笑顔で迎えてくれた。