「市議会議員候補の○○です。お世話になってます。○○は今日もこうして一生懸命に頑張っております」。ウグイス嬢たちの甘くとろけるような声が商店街や住宅街にも、田んぼにも、そして山間(やまあい)の道にも響く。20日朝から大曲市議選の選挙カーを追っている。定員24議席に対して立候補したのは現職20人と新人6人。うち女性候補は共産党の現職を含め3人。長い市議選取材を通して女性候補が3人になったのは初めてだ。女性の政治の舞台への進出は歓迎したい。政治はもはや男性だけの感覚で運営される時代は終わった。少子・高齢化は深刻になる一方である。そうした中での子育てや教育、そして介護保険、医療費の値上げなど生活に密着した問題は男性だけの感覚ではどうにもならなくなった。そんな閉塞感を感じる。それだけに生活感覚で政治を捉えないとどうにもならない。その意味でも出馬した3人の女性候補の活躍には期待したい。ともかく今週は選挙に明け、選挙で終わる毎日となっている。
選挙戦の取材は精神的にも体力的にも重い負担と責任が伴うが、やりがいもある。戦う側も真剣だし、それを追うこちらも力が入る。夢中になれる取材があるということは記者冥利に尽きる。ただ26人もの候補者の動静をつかもうと、たった一人で26台の選挙カーを追って歩くのは物理的にも無理だ。告示初日の20日だって直接、選挙事務所を訪ねたり、選挙カーを追って戦いの様子を自分の目で確かめ、取材できたのは新人候補6人と現職3人だけだった。
その9人を追うだけでも20日は半日つぶれた。その間には市議選への立候補者の名前と記事を書き、ケンニチの紙面を更新した。昼休みさえ取れない告示日当日だった。空腹に気づいたら午後2時近くであり、近くのスーパーに飛び込んで焼きそばをお腹に詰め込んだ。
翌朝は交通死亡事故の記事を突っ込み、それから新人2人の候補者を追い、昼休みには現職候補の事務所を訪ねた。市議選は全員を追わなくても、状勢はほぼ見えてくる。それは過去の選挙記録があるからだ。現職の過去の得票数がどのくらいなのか。大きな変動がない限り、現職の選挙カーはそれほど追う必要はない。問題はデーターのない新人候補の動きである。新人候補の出陣式にはどのくらいの人が集まったのか。あるいは実際に選挙カーが走り出した時、地域住民がどのような表情で出迎えるのか。それを追って自分の目で観察する。新人の場合、初めての選挙だけに街頭に出た人すべてが「自分のために出てくれた」と思い込みがちで、「手応えはとても良かった」との言葉を鵜呑みするわけにはいかない。
新人候補の動静を取材し、予想以上に勢いがあると、そのあおりを受ける現職は誰なのか。確定的ではないが地域別にほぼ見えてくる。雨だったせいもあるかもしれないが、告示初日と2日目、それに4日目の23日も候補者は現職、新人問わず気の毒なほど有権者の歓迎を受けることなく終わった。住宅密集地に繰り返して車を乗り入れ、マイクのボリュームいっぱいに叫んでみても誰一人顔を出さない。助手席側に乗った候補者、後ろの座席に乗ったウグイス嬢たちが顔を左右に振って何とか出迎えの人の姿を見つけようとしているのだが、無情なほど人が出て来ない。どこの家も日中はピッタリと窓を閉めたままだった。
そうした状勢もあって初日は午後からの市街地での取材をあきらめ、内小友から角間川町へと車を走らせた。角間川町では現職候補の事務所に選挙カーが止まったままだった。「おや」と奇遇に思い、事務所に寄ったらその候補者が「いや。もう走っても、走っても誰も出て来ない」とあきれたように笑った。そしてこちらからは他候補の状勢は聞きたがる。「まず休め。どうだべ。新人の女の人たちは」とやはり女性候補の動きを気にする。10分ほど雑談したが、やはり腰が落ち着かないのか「せば。行ってくるべ」とその候補者はウグイス嬢と共に立ち上がり再び選挙カーに乗り込んだ。
そこからさらに300メートルほど走ったスーパーの空き店舗を借りて選挙事務所としている現職もやはり選挙カーを事務所前に置いて一休みだった。面白いことに議会では同じ会派で活躍しているもう一人の候補者も、そこに車を止めてウグイス嬢らと共にお茶の接待を受け、雑談を楽しんでいた。議会での議員活動は一緒でも選挙戦は敵味方に分かれた二人だ。しかも守るべき自分の地盤に攻め込んできた相手を事務所に迎え入れ、余裕の〃呉越同舟〃の時間を楽しんでいたのである。そして「いやー。もう雨でどこをどう走っても選挙にはならない」。二人は顔を見合わせてあきれたように笑った。
こうした敵味方が一つ事務所で休憩を取るという市議選ならではの和気あいあいとした戦いの現場を見るのは嬉しい。眉間にしわを寄せ、必死で戦い、相手の倒れるのを喜ぶ戦いを見るよりも休む時はお互い心を許しあって休む。そうした人情のある選挙戦は見ていてもホッとする。
一方で市議選告示から3日目の22日は町村の首長選が告示された。選挙戦となる太田町へと走り、立候補した二人を追った。と言っても一人ではどうにもならず、取材に駆けつけていた各社の記者と担当を分担した。こちらはほかの社の記者2人とコンビを組み、新人候補の第一声をメモに取った。一方の記者たちは現職の候補に残ってメモを取った。そして役場前の施設で落ち合い、お互いにメモした候補者の第一声を交換しあった。
太田町の取材を終えてからは六郷町の町議選の届け出へと走った。そして夕方には無投票当選が決まった協和町の山谷町長の喜びの声を聞きに走った。走っては原稿を書き、記事を突っ込む。多忙な本当に多忙な日々だった。
しかし、取材の合間も自分の心境は穏やかではなかった。相変わらずしこりと悲しみ、こだわりが尾を引いている。忘れようと努力してもネット上で繰り返されるさりげない言葉のやり取りがどうしても目に入って、それが心の傷をえぐる。悪意がないことは分かっている。無意識にネット上で交わしている無邪気な言葉のやり取り、ということも理解している。しかし、2年近くにわたって黙視という形で繰り返されたネット上での〃無視〃は、いつの間にか救いようのないトラウマ(精神的外傷)となってしまった。
こだわるのは止そう。精神的にも無駄なエネルギーを浪費するのは良くないと自らに言い聞かせるのだが、人間とは悲しい性(さが)を持っているもので、心の傷の原拠となったものから逃れようとしながらも、あえてその場に入っていこうとする。自分の境地さえ守ればいいのに去ってしまった人の世界を知ろうとする。
仲のよかった友と意志の疎通が悪くなると、人はその真意を探ろうとするものだ。嫉妬心。そうした心境に似ている。真意を知ることでより深く傷つくのだが、感情はそれを探ろうとする。子供っぽい表現で許してもらいたいが、去った人が新しい友をつくって親しくやり取りしている姿を目にしただけでも嫉妬心を抱き、悲しむように、見なければいいのに去った人が別なネット上で盛んに言葉の交流を楽しんでいるのを目にしては、自らの傷口を広げてしまった。そして「自分はこれほど傷ついて苦しんでいるのに、この人はそれを無視し、残酷なほど笑ったり、喜んでいる」と相手を恨む。
掲示板はその利用の仕方では様々な方と交流を深め、友情を分かち合うネットならではの素敵な交流の場なのだが、時には残酷なほど人の心を苦しませる面も持っている。親しくなった人が理由さえ言わず、その場から去り、別な世界ではワイワイがやがやとはしゃぐ。これは仕方ないことかもしれないが、一方で取り残されたは側に向けては意図的な無視や沈黙を長期にわたって繰り返されるとひどく困惑し、傷つく。救いようのない孤独感と寂しさを味わうものだ。それが長期にわたって繰り返された。それによって深く傷つき、救いようのないトラウマとなってしまった。そうした掲示板の怖さ、残酷さを体験した。バーチャル空間で繰り返されるさりげない言葉のやりとりが鋭いキリのように心をえぐる。掲示板にはそうしたやっかいな面と怖さ、残酷さもあるということを自ら体験した立場から、読者にも知らせておきたい。
それでも選挙戦を通じて見た人情のやり取り、そして日曜日にたった一人、会社で原稿を書いている自分に「お昼はどうするの?」と携帯電話で心配の声を寄せてくれた妻。雨の朝、取材用の雨コートを用意してくれた配慮。そうしたささやかな幸せに支えられ、崩れそうな自分の心を何とか守っている。傷ついた心はサクラの話題にさえ、今年はひどくおびえた。春の喜びをまだ見つけられないでいる。