今年はカッコウが良く鳴く年だなと思う。朝の散歩時にも夕方の散歩の時にも、遠くから、近くから「カッコウ。カッコウ。カカココー」の鳴き声が聞こえてくる。のどかなカッコウの鳴き声は「田園」に響く陽気な森の音楽家のようだ。雨の日も、晴れた日もカッコウは鳴いている。雨が数日続いた。雨のせいか気温も下がり、半袖シャツでは涼し過ぎて、長袖に着替えた。日曜日の朝はさらに重ね着して共同墓地の掃除に出かけた。墓地を持っている人たちみんなで午前5時から掃除をすることになっていた。「私も行こうか」と妻も言ってくれたので、少し遅れたがこぬか雨の中を共同墓地へと急いだ。
墓地の通路は例年、墓を管理している農家の人たちが除草剤を使って雑草を駆除しているのだが、今年はその除草剤散布の前に少しでも雑草を排除したいとの呼びかけが数日前にあった。20数人の人たちが、雨の中で黙々と除草作業をしていた。父と母の眠る墓地はコンクリートで整備したつもりだったが、スギナを中心とした雑草が小石を敷きつめた下から鬱蒼と生い茂り、むさ苦しい状態となっていた。妻は通路の雑草を、自分は墓地内のスギナの抜き取り作業をした。
お墓を訪ねたのは久しぶりだった。雨にシットリと濡れた墓石は黒光りしていた。吉祥瑞雲居士、寿桜妙雲大姉。刻まれた父と母の戒名の部分だけは雨がしみ込まず灰色に乾いていた。父は自分が33歳の時に77歳でこの世を去った。母は42歳の時、88歳で眠った。お墓は父が亡くなった時に建立した。仏壇もその時に買い求めた。そして小さくなった父の遺骨も母の遺骨も仏壇に納めていたが、昨年10月に角間川町の「浄蓮寺」の本山である東京の芝・増上寺に納骨した。留守中でも毎月1回、お寺さんが来てお経を読んでくれていたが、本山に納骨するのが仏となった父、母には一番、落ち着けるのではないかと思った。
雨に濡れた墓石は黒光りしていた。スギナを抜いた。雨に濡れたスギナは抜き取ると糸のようにしおれた。手で束ねては運び、束ねては運んで雑草の捨て場に積んだ。手はグシャグシャに濡れていた。
雨に濡れた父と母の眠る墓石を見つめた。高校の入学式に同行した時、「バッチャ。みんな新入生はダスターコートを着て校門をくぐったのに、コートを着てなかったのは正雄だけだった。やっぱりまだ寒いし、コートは必要だ。かわいそうで、買ってやったよ」。入学式を終えて、自転車で帰宅するといの一番に父はコートを買ってやったことを母に報告した。
父は自転車で行商を、母は裁縫で生計を立てているだけに、高校に入学させるのは経済的にもかなり無理をした家庭だった。通学用の自転車、そしてカバン、革靴、学生服、教科書などを買い求め、授業料を納めるだけで精いっぱいの家庭だった。しかし、息子の晴れの入学式に同行した父が目にしたのは、誰もが申し合わせたようにクリーム色のダスターコートを着て、まだ北風の冷たい校門を親子でくぐる姿だった。「みんな新しいコートを着ての登校なのにうちの息子だけ、コートも着せずに入学させてしまった」。父は校門をくぐる新入生の姿を目にして忸怩(じくじ)たる思いをしたのだろう。入学式を終えると怒ったような悲しい顔で「マア。街さ行くべ。急いでコートを買わねば」。そう言って自転車を急がせた。
入学した工業高校は創立してまだ2年目とあって校舎さえなく、仙北町の小学校を借りてのスタートだった。父は大曲の街へと急いだ。そして洋品店に入ると「マア。好きなコートを選べ」とこちらの心配を打ち消すかのように笑顔で言った。好きなコートと言ってもどれも似たりよったりのデザインのコートばかりだったが、とにかく自分もコートを買ってもらえるんだと有頂天だった。淡いクリーム色のコートの中から自分の背丈に合った一着を取り出し、着用した。甘い香りがぷーんとしたのを覚えている。鏡に映った自分の姿を父と共に眺めた。誇らしい気持ちだった。「マア。似合うよ。ウン。高校生らしい姿になった」。父は顔をほころばせた。そばにいた男性店員の笑顔も今、ハッキリと目に浮かぶ。
家に帰っていの一番に「正雄にダスターコートを買ってやったよ」と報告したのは「金も無いのにまた無理をして」と母の小言を何とか逃れたかったのだろう。高校に入れるのもかなり無理をしての出費だっただけに「コートぐらいは我慢してもらいたかった」と母が怒り出す前に説得したかったのだろう。しかし、母も自分のコート姿を見て「おお。マア。買ってもらったか。良かったな。よかった。大事に着てろよ」と喜んだ。母も自分のためにダスターコートを買ってやりたいと思いながらも、父に遠慮して言えなかったのがその時の笑顔で分かった。そうした慎ましい父と母だった。
8人兄弟の末っ子として生まれた自分だった。秋田市から引っ越し、魚商売で成功したという戦前の我が家の盛況さは知らないが、親子ほど年齢が違う兄や姉たちは「戦前は漁業組合長もやっていて、この箱に金があふれていたものだったよ」と桐の箱で作られたみかん箱ほどの空の金庫をよく自慢したものだった。箱の4隅が黒い金具で覆われた頑丈なものだった。戦後、なぜ落ちぶれたかは知らない。父も母も話すことはなかった。ただ自分が生まれた時も細々と雑貨屋と魚の行商をやっていた。そして東京から疎開し、移り住んだ人たちや朝鮮の人たちなど様々な人が我が家に出入りした。
その人たちに可愛がられ、いろんなアクセントの言葉が耳に入った。秋田弁、東京弁、そしてクセのある朝鮮の人たちの言葉も馴染んだ。社交家だった母は出入りする人たちをいつも笑顔で迎え、お茶の接待をした。幼いころはいろんな訛りの言葉で膝に抱かれ、頭をなでられた。そのせいか、自分の言葉もどこかアクセントが違うと小さいころから言われた。先日、飲み会があって一緒になった70代のお坊さんから「伊藤さん。あなたのおふくろさんには家のおふくろもお世話になったものだよ。お茶飲み友だちで、よく通ったものだった」と懐かしがられた。
確かに母は客商売もあって社交家だった。一面で頑固一徹な面もあった。一方で父はただ母の言うがままだった。父は家庭では母の言いなりになっていた方が家庭に波風が立たないと思っていたのかもしれない。いつも飄々(ひょうひょう)とした表情で暮らしていた。
その父が高校の入学式の帰りに母に断りもなくダスターコートを自分に買って与えたのは相当の決断を要したものと思う。「マア。街さ行くべ。コートを買わねば」。怒ったような悲しいような顔をして父は学校を出ると真っ直ぐ自転車置き場に急いだ。そして先頭を切って走った。その後ろ姿を追って大曲の商店街に急いだ。父は自分に「見すぼらしい思いはさせたくない」の一心だったろう。雨に濡れた墓石を見ていたら、高校の入学式の日が思い出された。自転車に乗って雨の日も風の日も行商に走った〃櫛風沐雨(しっぷもくう)〃の父の姿を思い出していた。
増上寺の納骨堂に納まった父と母の小さな遺骨。信心深かった二人だ。毎朝夕、増上寺の多くのお坊さんたちの読経をどこかで聞いていることだろう。あと一カ月もすると「お盆」も来る。今年も迎え火を焚いて父と母を迎えてやろう。通路の草取りをしていた妻の手も泥だらけとなっていた。増上寺に遺骨を納め、その本堂で父と母の戒名が読み上げられ、大勢のお坊さんの口からお経が流れた時、念願を果たしたとばかりに目にハンカチを充て、涙をぬぐった妻だった。本当の親と娘のように父と母に接した妻だった。本当にありがとう。カッコウの声がその日の朝も聞こえた。雨に濡れた空気を透かすようにカッコウの声は響いた。今年はカッコウが良く鳴く年だと思った。(写真は雄勝郡羽後町の七曲峠で写す)