春に種からプランターに植えた4本のヒマワリが自分の胸ほどの背丈に伸びた。あの小さな種がこんなにも大きく成長するものかとその生命力に驚いている。太陽に向かって伸びるヒマワリだけに、養分を取るための水もよほど必要とするようだ。雨が続いていたため、水はやらなくてもいいだろうと油断をしていたら、雨上がりの夕方、ヒマワリの葉はしおれて、だらんと下を向いてあえいでいた。
「オーイ。ヒマワリに水をやらなかったろう。葉っぱがしおれてたよ」。
その日は会議があって、自分の車で出勤した妻は少し暗くなってからの帰宅だった。着替えをしながら「エーッ。ヒマワリが・・・」と顔色を変え、「あぁー。しまったー。雨が降ってたから水はいいと思ってたんだ。あなた水をやってくれた?」と大声で尋ねた。「ああ。水はやったけど、随分、弱っていたな。葉っぱがだらんと下を向いていたよ」。少し脅し過ぎたかと思ったが「大丈夫よ。きっとあの人たちは立ち直る。ヒマワリは強いんだから」と自分に言い聞かせるように気を取りなした。その通りだった。翌朝、ヒマワリの葉はぴーんと立ち直っていた。
忘れな草やペチュニア、マリーゴールド、コリウスなどの花をプランターや鉢に植え、玄関前から車庫前へと花の置き場を次々と広げた妻は、自宅に帰ると一目散に水をやり、まるで自分の子どものように「この人たち、みんな元気に咲いてくれて」と喜んでいる。柴犬のアキもそうだし、小犬のパピーも妻にとっては「この人たち」や「あの人たち」なのだ。ヒマワリの花が咲くのはこれからだが、妻にとって「この人」「あの人」と呼ばれる花はその芽を毎日、少しずつ膨らませている。
梅雨のせいか、せっかく青空となっても次の日は雨か曇りだ。先日も午前中は快晴だったが、午後には薄曇りとなり、夕方には太陽に暈(かさ)が掛かった。太陽をドーナツのように覆った暈の内側には淡い虹色の光があった。子どものころ、太陽に暈が掛かると翌日は雨になると言われたものだった。そして本当に次の日は雨だった。学校が休みだと神社の広場に集まって缶蹴りやチャンバラ、野球ごっこなどで遊ぶのが当時の子どもたちの習慣だっただけに、太陽に暈が掛かって雨が予測された時は本当にガッカリしたものだった。
このところ取材の日程もなく、家で自由に過ごせる土日が与えられると自分にとって、とても貴重で大切な時間だと思うようになった。以前はそれほど休日を意識して家で過ごすことはなかったが、このごろは土日がとても貴重な時間と思うようになった。休みだからといって、格別やることもなく、ただ籐椅子に腰を下ろして本を読んだり、昼になるとビールを空けてカミさんのお小言を聞く程度だが、妻と過ごせる時間がとてもいとおしいのである。
晴れた日の土日の朝は遠出の散歩となり、横手川を超え、田んぼ沿いの道を歩いて仙南村から角間川町に入って自宅に戻るコースを取っているが、その平凡な朝の時間がとても貴重に思えるのだ。誰にも邪魔されたくない。充実した時間だと感じるのである。ゴルフをやっていたころは誘いがあれば土日は家を留守にしていたものだが、このごろはそのゴルフさえ断っている。
気が向けば掃除機を掛け、「手伝って」と言われれば台所で妻の食器洗いを手伝い、洗濯物を屋外に干す。そうした細々とした共同作業が楽しいのである。雨であれば黙って本を読み、小説の世界に没頭する。そして昼はビールを飲み、買い物があれば妻に運転を任せ、付き合う。そうした平凡な時間がとても貴重に感じられるようになった。
それにしても図書館から借りてきた本を読みながら、そのストーリーがこのごろまるっきり頭に入ってなかったのに気づき、愕然とする。作家の名前も忘れたが先日も本の題名に引かれ読み出したまでは良かったが、2〜3日かけて半分ほど読んでから「どうもおかしい」と思った。さっきご飯を食べたのにまたご飯を食べているような気がした。同じ道をグルグルと繰り返して歩いているような空しさを感じた。気がついたら10日ほど前に読んだばかりで、それを再び図書館から借りてきていたのだ。新潟を舞台にした刑事物語だったが、半分ほど読んでからやっと前に読んだ本だと気がついた。自分はいったいその小説から何を得たのかと記憶力、読解力の衰えに悲しくなった。
そのことを知り合いに話したら「いや。俺もそうだよ。本を借りてきて半分ほど読んでたら、どうもおかしい。どうもおかしいと気付いた。やっぱり返したばかりの本をまた借りてきていたんだ。もう我々の記憶力もあてにならないね」とその人は笑った。しかし、言い訳ではないが、単に記憶力の衰えとも言えない面もある。最近の作家の読者に与える訴求力、インパクトも貧弱になってきたような感じもする。
なぜなら昔読んで感動した夏目漱石や島崎藤村、川端康成、太宰治、三島由紀夫、石川達三などの小説はいまだにそのストーリーも、名文の一部もかすかだが、記憶に残っている。NHKの大河ドラマでは今、吉川英治の「宮本武蔵」が放映されているが、評判が余り良くないと聞く。自分も最初のころはその武蔵に興味を持って観ていたが、途中から観る気がなくなった。それはストーリーが原作から逸れ、寄り道が多くなったからである。ドラマの制作者は原作を超えた面白いものにしたいと踏ん張ったかもしれないが、それがあだとなって武蔵の気迫に満ちたドラマが薄められてしまったのではないか。
自宅には萬谷錦之助主演の映画「宮本武蔵」のビデオがあるが、こちらはほぼ原作に基づいて製作されている。佐々木小次郎を演じるのは高倉健で、武蔵との橋の上での出会いのシーンなどは劇的で見事な演出だった。吉岡道場一門との決闘、槍の宝蔵院での試合、そして柳生石舟齋が切り取った芍薬の花の切り口を見て、そこに柳生家という名門、石舟齋の武芸者としての技の非凡さを感じ取るシーンなどは今でも思い出される。
太陽をドーナツのように覆った暈。その翌日の土曜日はやはり雨で、犬を連れた散歩も休み、本を読んだり、妻の運転で買い物に付き合ったりとぼんやり家で過ごした。太陽の暈を撮ろうとカメラを天に向けた。まぶしくてファインダーを観ることが出来ず、当てずっぽうでシャッターを押したがきれいに暈が映っていた。梅雨空に観た太陽の暈。雨の休日もいいなと思った。