こちら編集室「雨の日々の中で」(8月29日)

 すじ雲。羽根雲。あばた雲。泡(あわ)雲。鰯(いわし)雲。鯖(さば)雲。綿雲。入道雲。はぐれ雲─。

 雲の名前のいろいろだ。梅雨明け宣言もなく、冷夏で終わった今年はすじ雲も鰯雲もましてや勇壮な入道雲も滅多に見られず、空を覆ったのはいつも鉛色の雨雲ばかりだった。雲量100%─。毎日、嫌になるほど暗い空が続いた。いやになるほど曇り空が多く、いやになるほど雨が多かった。23日の「大曲の花火」も雨だった。雨の中で音と光の芸が展開された。

 今年も桟敷席を買い求めた。ケンニチを技術的に支えて下さっているわらび座「デジタル・アート・ファクトリー」の海賀孝明さんとそのお母さんに今年は来てもらった。桟敷席でユックリと花火を楽しんでもらいたいと思ったが、雨が台無しにした。それでも海賀さんは「こんな近くで『大曲の花火』を観たのは初めて。音がすごい。色がすごい」と喜んだ。こちらは妻と実家の母の3人で迎えた。実家の兄さんも一緒だったが、「雨に濡れたせいか、寒気がする」と早めに帰った。自分もこうもり傘を持たず、ゴルフ用の雨合羽にしたのが失敗だった。大粒の雨には合羽は役に立たず、頭も肩もずぶ濡れとなった。濡れたせいか寒けがした。風邪をひくのが怖かった。濡れた髪を乾いたタオルでぬぐい、合羽の下にジャンパーをはおった。そして少し体を動かそうと、桟敷には座らずしばらく立って過ごした。

 ドーン。西山に反響して響く火薬のさく裂音。バリバリバリッ。夜の闇を引き裂くようなスターマインの発射音。今年の「大曲の花火」も素敵だった。すばらしい音と光の競演だと思った。全国から選び抜かれた花火師たちは「大曲の花火に出られるだけでも名誉なこと」と鼻を高くし、アイディアを練り、技を磨くという。雨に打たれながら観た「大曲の花火」。舞台は最悪だったが、海賀さんがただひたすら「伊藤さん。すごいねー。きれいだね」と喜んでくれたのが救いだった。宇都宮から駆けつけた海賀さんのお母さんも雨に顔を濡らしながら満足そうな、いやその迫力のある音と光の演技にあきれたような笑顔で夜空を見上げていた。その笑顔を見て「来てもらって本当に良かった」と思った。

 終盤になったら妻がセッセと自分の背中のバックに手を入れて何かを探っている。何をしているのかと黙っていたら、着替え用のカーディガンを取り出し、「海賀さんのお母さん。寒いからこれを着て下さい。体が濡れてしまったでしょう」と着替えを勧めた。せっかく来てもらったお客さんに「風邪を引かせては大変」と着替えを取り出して勧めた妻の配慮も嬉しかった。海賀さんのお母さんも感激していた。雨の中で、カミさんも花火のようないい場面を見せてくれた。

 我が家と大曲の花火会場とは6キロほど離れている。幼いころ「大曲の花火」と言えば父が連れて行ってくれたのは自宅から歩いて5分ほどの雄物川河川敷だった。河川敷に座って、遠く離れた街から上がる花火を眺めたものだった。小さいけど光の花がパッと咲くと誰もが「ああ。きれい」と小さな声を挙げて感動した。それから2〜3秒してドーンという音が届いた。

 今で言う創造花火が上がると「シュボ、シュポ、シュポン」と低く、すっぽ抜けたような音が連続して聞こえたものだった。父ははるか遠くに細い火柱が右や左に上がってはパッ、パッと散るのを見て、「オッ。早撃ちが始まったな」と言い、父の友は「いや機械撃ちだ」と言った。早撃ちも機械撃ちもどういう構造であのような花火が上がるのか。幼い自分にはまるで分からなかったが、ただ遠くの空をぼんやりと赤や紫、金色で焦がす小さな光の幻想的な輝きに胸を踊らせたものだった。

 大曲の花火の夜。幼いころは水泳ぎした河川敷から眺め、夜空に豆粒ほどの大きさで咲く花火を楽しんだものだった。迫力なんて何もなかった。ただ小さいけどとても美しいものが夜空を焦がしていると感じた。その大曲の花火を間近に観るようになったのは高校生になってからだった。

 高校へは自転車で通った。体力があり余っていた高校時代だ。自転車をいくら漕いでも疲れを知らなかった。自宅から大曲までの距離はほぼ6キロ。自転車で20分も飛ばすと着いた。今でこそ20分も自転車を踏んでいると息が切れるが、当時はほんの眼と鼻の先の距離だった。花火は川原で立って観た。今のように川原が立錐の余地さえないほど混雑する大会ではなくもっと余裕があった。また会場も今とは別な場所だった。

 高校生だったから花火を観るのが主目的ではなく、夜の商店街をブラブラ歩き、止せばいいのにナンパするのも一つの目的だった。しかし、3年間、大曲の花火に自転車で通ったが、女の子に声を掛けた思い出も掛けられた思い出も一つもない。結局は夜の街をブラブラし、深夜、空しく堤防を自転車に乗って帰っただけだった。

 花火の夜の徘徊に付き合った同級生が「マサオ。タバコ吸ってみないか」と帰る途中、真っ暗な堤防に自転車を止めてタバコを勧めた。「タバコか?」。「ウン。吸ってみれ。頭がクラクラする。面白いもんだ」とその同級生は夜の闇にマッチで、タバコに火を付けた。マッチの明かりで夜の闇にぼんやりと、オレンジ色に浮かんだその同級生の横顔が映画の主人公のように格好良かった。

 火の付いたタバコを一本もらった。ピースだった。スーッと吸ったら本当に頭がモヤモヤし、立って居られないほどクラクラした。めまい。何かすごい素敵な体験だった。「ヘエー。これがタバコの味か」「ンだ。うめえもんだべ」。同級生は仲間が出来たとばかりにニヤッと含み笑いし、「学校で吸うとうるせいから気をつけろよ」と注意した。あの夜の一本がその後のタバコとの付き合いとなった。生意気盛りの17歳か18歳だったと思う。

 そのタバコを止めていよいよ一カ月近くになる。おかげで9月1日にはタバコを気にせず飛行機に乗れそうだ。渡米目前となった今週は銀行へ行ってドル札との交換や小切手の手続きなど細々とした準備に追われた。そして27日には東京の財団法人が発行している広報誌から「グルメもの」の取材依頼を受けた。その原稿も29日まで書き終え、メールで送った。「インターネットで新聞は拝見しました。原稿の方は何も心配してません。今後も2ページ、3ページものの取材をお願いすることになるかもしれません」と広報担当の方は言った。バラエティに富んだ仕事が入って来るのは嬉しい。

 30日と31日の土日はアメリカ旅行に向けて最後の準備と持ち物を点検し、1日は秋田空港から全日空874便(11時20分発)で旅立つ。帰国するのは9月8日の夜だ。秋田県南日々新聞はそれまで休刊とさせてもらう。それにしても取材先でさまざまな人から「伊藤さん。いよいよアメリカ行きですね」と声を掛けられ、驚く。メールでも「帰国してからの写真とレポートを楽しみにしてます」と励ましが来る。ロスアンジェルスのリー・敦子さんからも「ロスでの再会を楽しみにしてます。勇気ある禁煙が続くように」とメールが来た。本当に多くの人がケンニチを読んでいるのをこのごろ実感する。

 一時はパソコン持参も検討したが、岩間さんによるとアメリカはテロ対策のためパソコン持参の旅行は厳しい検査があるという。パソコンを持参すると気づかうことが多くなりそうだ。今回はパソコンは持たず、アメリカを楽しむために行こう。ケンニチはしばし忘れ、岩間さんの案内でアメリカを堪能したい。

 それにしても今、読んでいる本がまだ途中だ。子母澤寛の「勝海舟」である。上中下の3巻からなり、その1巻がまだ36ページを残したままだ。全部を読み切って、2巻を旅に持ち込みたい。勝海舟らが船でアメリカに渡ったのは1860年代だった。海舟はアメリカ国家を見て、このままでは日本が滅ぶと心配した。そして幕府を促し、海軍国家設立に奔走する。小説「勝海舟」が面白い。今度の旅にはその続きを持って行きたい。