こちら編集室「アメリカの旅(2)」(9月19日)

 アメリカへの旅「パート2」へ入りたい。一回目では出発からサンフランシスコ空港で岩間さんと会うまでを書いた。そして岩間さんの車に乗り込もうとしたら左ハンドルであり、車が右側通行であることに戸惑ったことなどを書いた。

 サンフランシスコ名物のジグザグの坂道さてサンフランシスコ空港の地下駐車場から岩間さんの車で市内へと向かう。一般道路へ出ると眺めは一変する。広い。道路の広さにとにかく驚く。片側4車線から5車線の自動車道となり、サンフランシスコ市内に入っても道路の広さは目を見張るばかりだ。それにしてもサンフランシスコ市内に入って驚くのは坂道の多さだ。中心市街地を真っ直ぐに延びる道路もそれを目指して左右から交差する道路も坂道だらけだ。「ええ。この町は坂の町でもあるのです。坂が多いから、これ以上、この町は大きくなることはないでしょう」と岩間さん。それでも人口73万人の大都市である。

 市内を走りながら「伊藤さん。あれがサンフランシスコ市役所です」と岩間さん。石造りの豪壮な建物が目についた。妻が「ゴージャスな建物ね」と後部座席から興奮の声。車内からその市役所の写真を撮ろうとデジカメを手にして愕然とした。いつの間にかカメラのシャッターボタンが外れ、なくなっているのだ。シャッターボタンが弾けて、もはやカメラではなく、単なる〃ごみ〃と化しているのである。

 アメリカに到着するまでは何でもなく、機内の窓から何枚も写真を撮った。なのに今、カメラを手にしたらシャッターボタンがない。想像だが、重いスーツケースを岩間さんの手助けを受けてトランクに積む時、肩に下げていたショルダーバックとカメラが激しく擦れ合って、その衝撃でシャッターボタンが弾けてしまったようだ。

 「カメラが使い物にならない」。とんでもないアクシデントに体中から血の気が失っていくのが分かった。旅立つ前に何度も思った。万が一に備え、もう一台のカメラを予備に持つべきではないか。しかし、せっかくの旅である。身軽にしたい。結局、楽な方を選択し、予備のカメラは持たずに出発した。それにしてもシャッターボタンが弾けてしまうとは!。デジタルカメラは構造上、まだ未完成の域かもしれないが、シャッターボタンが何かの衝撃で吹っ飛んで使い物にならなくなるなんて考えてもみなかった。

 「岩間さん。カメラが・・・」。震える自分の声が泣き声になりそうだった。「えっ。カメラがどうしたんですか?」。「壊れたんですよ。カメラが・・・」。「あれまぁ」。岩間さんもあきれたような声で「シャッターボタンが弾けるなん。信じられない故障ですね」と驚く。「岩間さん。この国でカメラを修理してもらうのは無理でしょうね」。「ええ。アメリカで、それは無理ですね」。

 車内で二人の会話を聞いていた妻も「どうしてそうなったの?」と声を落とし、そして少し間を置いてから「あなた。新しいカメラを買ったら。私のカメラはフイルムの入ったカメラだし、あなたはデジカメでなければ困るんでしょう。買ったらいいのよ。そのためにカードも持ってきたんだから」とカメラを買い換えて、早めに気分転換を図るよう勧めた。

 こちらも落ち込んでいてもしょうがないと岩間さんに頼み、どこかでカメラを買える店を探してもらうことにした。岩間さんが飛び込んだその店はカメラからパソコン関連の品を総合的に扱っている米国でも有名なチェーン店とかで、そこで自分が使っているカメラと同じメーカーの中から最も手ごろな値段の約4万円のものを買い求め、それを使って旅の記録とすることにした。ここでもすべて、岩間さんの通訳のおかげで買い物をすることができた。カードを店員に差し出しても、身分を保障するためパスポートの提出も必要だった。

 霧に包まれた金門橋買い求めたカメラは画素数こそ落ちたが、ポケットに入る小型さが便利だった。そのカメラを手にしてから岩間さんが車で向かったのはゴールデン・ゲート・ブリッジだった。日本で言う「金門橋」である。全長2.7キロの巨大な吊り橋。「この橋が出来たのは1937年なんです。しかも片側3車線で、両側に歩道さえあるんです。日本で言えば昭和12年の完成ですから大したもんですよ。この国の建築技術は」と岩間さん。

 本当にそうだと思った。太平洋戦争が始まる4年も前にこんな海に吊り橋が架けられ、しかも将来の車時代を見越して片側3車線、両側に歩道付きの橋を造ったのだからその先見性と建築技術のすごさにはただ驚くしかない。

 戦争を知らない戦後生まれの自分には語る資格はないのだが、当時の日本の軍人たちがアメリカのそうした底力をもっと知っていたら日米開戦という愚かな道へは踏み出せなかったのではないか。戦艦「大和」を造った技術は認める。ゼロ戦という名機を造った技術も認める。しかし〃大和魂〃という根性だけを誇りに、敵を知らずにただうぬぼれだけで戦争という悲惨な舞台に突き進んだのには愚かさを感じる。

 それにしてもサンフランシスコは〃霧のまち〃でもある。上空は青空なのだが、眺める山の上を白い霧が流れていく。岩間さんによるとサンフランシスコ湾内を寒流が流れていて、その冷たい海の水が上空の温かい空気と混じり合って霧を呼び込むのだという。ヴォー。ヴォー。金門橋を深い霧が包み込み、その下を通る船の安全を祈って霧笛が何度も何度も響いた。

 霧の金門橋を渡るとサンフランシスコ湾に面した瀟洒な港町へと出た。おしゃれな店が立ち並ぶ港町を散歩した。どこまでどこまでもカリフォルニアの青い空が広がっていた。岩間さんは「このサンフランシスコはアメリカでも人気のある町で、特に東部の人たちがこの温暖な気候を求めて観光に来るんですよ」と説明する。そしてこの町は「観光と金融の町として発展してきた」とも。丘に上がってサンフランシスコの眺望を楽しんだ。青空と霧。そして多くの観光客。何もかもが興奮材料だった。

 石造りの素敵なお店夕方。予約していた日航サンフランシスコホテルにチェックイン。ホテルから再び岩間さんの案内でチャイナ・タウンへと歩いた。当然の事だが白人、黒人、アジア系、メキシコ系。さまざまな人種の人たちとすれ違う。同じ大都会でも東京とは違ったエキゾチックな雰囲気で歩くだけでもゾクゾクしてくる。

 中華料理店に飛び込んで夕食となった。ビールがうまい。料理の注文はすべて岩間さんに任せるしかない。シューマイがおいしいと思った。長粒種だが、お米を使った料理もうまかった。初めて迎えたサンフランシスコの夜。妻も自分もただもう感激で目がウルウルだった。ネオン輝くサンフランシスコの街を歩き、ホテルに戻った。岩間さんは自宅のあるサンノゼまで車で1時間半。「ホテルに泊まるなんてもったいない。今夜は帰ります。明日、また迎えに来ますから」と戻った。

 大理石造りの重々しいホテル。その16階までエレベーターで昇り、疲れた体をやっと横にした。シャワーを浴び、眠ったのは何時だったか。機内では結局、数時間しか眠ってないはずだ。しかし、ベッドに入って目をつむってもまた1時間もすると目が覚める。眠っているようで眠っていない。朝までその繰り返しとなった。結局、その夜も不眠のままアメリカ滞在2日目の朝を迎えた。

 午前6時半。妻とロビーへ下りて食堂へ。中国人と思える男性が笑顔で迎え、席へ案内する。間もなく白人のウエートレスが金属製の水差しを手に「カフェー・オア・ジュース?」と英語で語りかける。妻はコーヒーを、自分はジュースを注文したが、なぜかコーヒーとジュースの2種類をカップに注いだ。そして向こうに料理を用意しているから好きなものを運んで食べて下さいとジェスチャーで朝食はバイキングであることを説明する。ジュースがとてもうまい。ウエートレスの女の子に「ジュース。ベリーグッド」と訴えるとさも嬉しそうに笑顔をみせた。

 料理のカウンターに行くとパンを中心とした洋食に和食のコーナーまであった。味噌汁もあり、海苔もあった。玉子焼きに納豆もあった。妻は洋食、こちらは普段の朝食がパンが多いため、アメリカでの最初の朝を和食にしようと味噌汁を注いだ。真っ白なご飯が結構、おいしい。味噌汁もうまかった。

 レジで会計を済まそうとしたら受け付けの女性は日本人に代わっていて助かった。料金を支払うと同時にチップはどうすべきか聞いた。「合計金額の15%が相場ですから、4ドルをテーブルの上に置いておいて下さい」とのこと。アメリカではすべてがチップ制。このチップのやり方で失敗し、岩間さんから注意を受けた。それはベッドの枕の下に置くべき1ドル札だった。こちらは枕の下にお金を置くのは失礼なような気がし、ベッドサイトのスタンド台に置いた。ホテルを出てサンフランシスコの観光を楽しみ、部屋に戻ったら、そのスタンド台に置いたチップはそのままだった。

 市内を走るケーブルカー岩間さんは「枕の下に置いたお金だからこそ、部屋の掃除に来た従業員はチップだと思って安心してもらいます。でもスタンド台に置いたお金だと、宿泊客が別な目的で置いた金ではないかと思ってしまう。ホテル従業員がお客さんのお金に手を出してしまうということは大変なこと。ホテルの信頼を失うことになるから、例えスタンド台にさりげなく置いたお金でもそれはチップとは思われないので手は出しません」と言う。なるほどと思った。「ですから明日の朝、お二人の枕の下にそれぞれ1ドル札を置いておいて下さい。それで喜んで受け取ることでしょう」。文化の違いで誤解を受けても仕方ない。翌朝は言われた通り、二つのベッドの枕の下に1ドル札を2枚置いて部屋を出た。

 さて最初に泊まった日航ホテルでの2日目の朝。ホテルを前に記念写真を撮ろうとしたら「写真を撮ってあげましょうか」と日本語で語りかける女性と出会った。「ええ。お願いします」と喜んでお願いした。サンフランシスコに在住し、旅行案内をしているという方で、この日もラスベガスから来る日本人の団体さんを迎えるために待機しているのだという。

 秋田県南日々新聞の名刺をその方と交換し、アメリカに来ることになった経緯などを説明した。話題は尽きず、しばらくホテル前で立ち話となった。そしてその方は「向かいのあのお店。ギフト・ステージ。あれは歌手の吉幾三さんのいとこがやっているお店で、日本へのお土産を買うならあのお店を勧めます」と紹介した。「あの店のご主人。吉幾三さんとそっくりなの」とその女性は笑う。妻とその店へ飛び込んだ。「いらっしゃい」。なるほど吉幾三さんとそっくりな方、それに4人の女性店員が日本語で迎えた。

 装飾品からペン、スカーフ、ペンダントなどさまざまなものが商品としてあった。ここで日本へのお土産を買い求めた。妻も「アメリカに来た思い出としたい」と自由の女神を刻んだプラチナのネックレスを買い求めた。結構な値段だったようだが、妻の幸せそうな笑顔を見てると金額なんて気にならなかった。妻の買い物は長くなった。

 岩間さんがそろそろ来ているころだと一人でホテルに戻った。ロビーで岩間さんは待っていた。「向かいのお店で今、お土産を買っているので・・・」と説明し、一緒に店へと入った。アメリカ生活20年という体験を持つ岩間さんを紹介するとお店の人たちは大歓迎し、アメリカでの生活のいろんな面を相談していた。

 二台をつなぎ合わせたような長い車も買い物を終えてからは再び岩間さんの案内でサンフランシスコ観光となった。ホテルから徒歩でケーブルカーの出る駅へ。駅と言っても建物はなく、ただ街角で乗車券を販売しているだけ。そこへケーブルカーが走ってきては止まる。円台に止まったケーブルカーを運転手、それに車掌(?)が背中で押して向きを回転させる。ケーブルカーはまるで西部劇時代から走っているようなアンティークな造りだ。

 地下に張り巡らしたケーブルで車を引っ張る構造とか。馬が交通の手段となっていた時代。「坂の多い町だけに馬にとっては過酷なので、馬に代わるものとして開発されたのがケーブルカーだ」とサンフランシスコの港からゴールデン・ゲート・ブリッジへと向かう観光船で、レシーバーを耳に当てたらそう説明があった。「ゴー。ゴトン。ゴトン」。美しいサンフランシスコの街並みをゴトンゴトンと素朴な音を立てて走るケーブルカーに乗れたのも貴重な体験だった。車内は観光客で満員だった。