冬の真ん中を迎える「冬至」もあと直ぐだ。しかし、雪がないまま迎える冬至となりそうだ。スキー場は困るだろうが、雪がないのは助かる。とはいえ雪あっての雪国であり雪景色にならないとどこか落ち着かない。妻との散歩はおかげで続いている。普段は午前5時ごろ目覚め、それから雨とか雪でない限り妻も外へ出る。老化した柴犬のアキはもう散歩できる状態でなく、ほとんど犬舎で寝たきりだけに自分たちの朝の散歩に付き合うのは小犬のパピーだけだ。朝を迎えたとはいえ冬至を前にしたこの季節は午前5時を過ぎても真夜中だ。月は真上にあって、心細いような光りで地を照らす。冬至を過ぎると長い夜も次第に短くなっていくことだろう。冬の辛さは夜の闇の長さにもある。
その夜の闇を歩きながら、月の光りが綾なす風景の美しさに最近、とても感動したことがある。夕方の散歩コースとなっている自宅近くの「川港親水公園」でのことだ。公園には数カ所に街灯があって、夜になるとこうこうと街灯が当たりを照らす。その街灯が冬に入ってからスイッチが切られ、公園は夜になるとそれこそ真っ暗な闇が主人公になる。だからパピーを連れて歩く時は懐中電灯は欠かせないが、その日は明るい大きな月が出ていた。
月の光りを受けて杉林は青い光りの下で眠り、舗装された堤防道路も野球場も、また球場を囲むように立つ木立もみな青白い風景となっていた。月の光りが創り出す風景の美しさを発見したと思った。街灯のなかった子供のころの風景が目の前に展開したのだ。自分の子供のころは道路はまだ砂利道で、街灯もなく、夜は家々の窓から漏れるかすかな明かりを頼りに歩くしかなかった。それだけに月夜の晩は表が明るくて、余りの嬉しさにみんなで外に出てはしゃいだ。近所の子供たちと集まって影踏みをして遊んだ。
公園の街灯のスイッチが切られたおかげで、見上げると煌々と輝く月、そしてキラキラと輝く星が夜空にいっぱいだった。電気の光りのない夜もいいものだと懐中電灯を消し、空を見上げ、地上に展開する風景を眺めながらパピーとの散歩を楽しんだ。
表紙写真で使っている「東山とはどこの山を指しているのか」と読者から問い合わせがあった。千葉県市川市在住の方で10年ほど前から仕事で月1回程度、大曲市を訪れているという。その方のメールによれば大曲のことをよく知らないということと合併で「大仙市」になる前に、大曲のローカルな話題をもっと知りたいと「YAHOO」の掲示板で、「大曲か、近くにお住まいの方へ!」というトピックを開いて、大曲のことを語り合っているのだという。
大曲市に生まれ育った自分にとって、東山と言えば真昼山を中心とした「奥羽山脈」であり、西山は姫神山や松山を中心とした出羽丘陵を指す。東山は田んぼのはるか向こうに屏風絵のようにそびえ立ち、太陽とお月さまが昇って、朝と夜を告げる山であり、西山は沈む太陽と月を迎え入れ、夕焼けがきれいな山である。東山は子供のころから「あの山まで行けたら」と心傷む時、寂しくなった時、憧れ、いやしを求めた山だった。
「あの山まで行けたら・・・」。遠くの東山に失われた何かを求め、憧れ、虹を追って追い掛けた山であり、子供の足では追っても追っても近づいてくれない遠くて、冷たい山でもあった。そして西山は薬師神社があり、松山には公園があり、小学生のころ遠足で登った山であり、高校生のころ自転車で遊びに行った山だった。東山は遠くに高くそびえ、時には峻厳な顔を見せるが、西山はいつも母のように滑らかで寝そべった姿をしている。
冬。自宅から横手川の橋を渡るとその先の小学校に通じる道は人が踏み固めただけの細い道で、長靴は雪で埋もれ、随分、冷たい思いをしながら学校を目指したものだった。吹雪になると足は泣きたいほど冷たく、上級生を先頭に入学してまだ1年にも満たない自分たち下級生はその背中に隠れるようにして付いて行ったものだった。
毛糸の手袋はあったが、吹雪になるとほとんど役に立たなかった。指先が冷たくて泣きたいほど痛んだ。もちろん長靴を履いた足も指先に凍るような痛みを感じた。ビュービューと風がうなり声を上げて、粉雪を運び、粉雪を走らせ、体を震え上がらせた。10数人の小さな行進は一列になってみんな下を向いてかがむようにして歩いた。子供たちの足で踏み固めただけの細い雪道はウマの背のようにデコボコで「骨っこ道」とも呼んだ。そうした時、東山は吹雪でかき消され、姿が見えなかった。
骨っこ道はツルンツルンと足が左右に滑って前に進もうとしても中々、進めなかった。歩くのがとても辛い道だった。歩きながら「どうしてこんな冬が来るのだろう。冬は大嫌いだ」と心底、思ったものだった。やっとの思いで学校に着くとみんな競うようにして薪ストーブの前に立ち、体を暖めた。「小使いさん」と呼ばれるおじいさんが教室を回っては「おー。みんな負けねで来たな」と牛乳ビンの底のような厚いレンズのメガネをかけ、ほほを緩ませた。そしてストーブの扉を開けて大きな太い薪を中へ放り込んだ。
ストーブは真っ赤になって燃え、教室中に温もりがゆっくりと広がった。やっと体に温もりがたまったころ授業が始まった。算数や国語、理科、社会などの授業だったと思う。余り勉強に熱心な方ではなかった。何気なく耳を傾け、何気なくノートに書き、何気なく覚えようとした。
入学式前の「知力テスト」で、目の前に置いたビー玉を「いくつあるか数えてみて」と女先生に言われた。20までは数えられたはずなのに「一つ。二つ。三つ。四つ」と数え「十」まで行った時、十一、十二という数字は頭に浮かんでも「ウーン。分からない」とわざと首を振った。
先生は「10個まで数えられたからお利口さんよね」と母を見ながら褒めたが、こちらをチラリと見た目は「10までの数字しか覚えてないの」とガッカリした顔に見えた。どうして入学式前の知力テストのことを今も覚えているのか。半世紀近くも遠い昔の事となっても記憶の片隅に鮮明に覚えているものがあるから不思議に思う。
人間の記憶力は生きていく上で大切なことと思うが、ときには忘れたい思い出がいつまでも尾を引き、心苦しませる。川端康成の小説「山の音」に
「わたしはね、このごろ頭がひどくぼやけたせいで、日まわりを見ても、頭のことを考えるらしいな。あの花のように頭がきれいにならんかね。頭だけ洗濯か修繕に出せんものかしらと考えたんだよ。首をちょんぎって、というと荒っぽいが、頭をちょっと胴からはずして、洗濯ものみたいに、はい、これを頼みますと言って、大学病院へでも預けられんものかね。病院で脳を洗ったり、悪いところを修繕したりしているあいだ、3日でも一週間でも、胴はぐっすり寝てるのさ。寝返りもしないで、夢もみないでね」。
と語るシーンがある。自分もいやな思い出、辛い思い出、心傷つく思い出などを病院で洗いざらい洗ってもらい、忘れることが出来るならと強く思うことがある。まだ明けやらぬ黒い闇の底に聳える東山を遠くに眺めながらの朝の散歩。小犬のパピーを連れ、「あなた。車が来たよ。左に出たらだめよ」といつまでたっても子供のように自分を注意し、心配する妻の声に慰められながら味わう小さな幸せを大事にしている。