こちら編集室「月光ソナタ」(1月23日)

 柴犬のアキが亡くなってもう2週間になろうとしているのにまだ悲しみが緒を引いている。先週の土曜日は家にいるのも辛くて小犬のパピーを車に乗せ、妻を誘って横手市へと遊びに出かけた。横手市の「水車」というおそば屋さんでざるそばを食べ、それからお互い買うものはないがジャスコ、サティを歩こうとなった。

 小犬のパピーがいるおかげでアキを亡くしてもペットレス症候群に陥ることはなかったが、仕事を終え、車庫のシャッターをリモコンで開けるとアキがバネ仕掛けのようにシャッターの隙間から顔を覗かせ「帰ったか」とワンワン吠える姿が目に浮かんでくる。敏捷なアキは全身がそれこそバネ仕掛けのようだった。アキの実家である大曲市内小友の「天然記念物柴犬研究会」の五味靖嘉さんの裏山に何度か連れて行ったことがあるが、アキは山の中をそれこそ〃疾風(しっぷう)〃のような勢いで駆けずり回ったものだった。

 猟犬だっただけに山を走るのが大好きだった。五味さん夫妻も山を歩くのに付き合ってくれてアキの走るのを見ては大喜びし、山の中で妻とキノコ採りを楽しんだものだった。アキはいろんな思い出を残して旅立った。

 アキの死を知ってケンニチの「読者の広場」を通じてお悔やみを書いて下さる方。そしてメールを通じて直接、お悔やみの言葉を送って下さる方もいる。電話でアキの死を悼んでくれた方もいる。妻は電話で泣き、自分は「読者の広場」への書き込みやメールでのお悔やみの言葉を読んでは涙を浮かべた。

 朝霧の雪道(仙南村で)ジャスコ、サティを歩いても別段、ほしいものはなかった。妻も「格別、ほしいものはないけどお店を歩こう」とお互い無目的に店内を歩いた。ジャスコ、サティは春にお互い新しいイメージの店になるため在庫一層の大売出しをやっていた。

 そのせいか大勢の買い物客で店内はごった返していた。背広や冬のコート、靴、時計、下着類。そして電気、食器売り場、オモチャコーナーなどをブラブラ歩いた。時には妻と別行動しながらジャスコ、サティの店内をさまよった。歩いてはアキを思い出し、目が潤んだ。歩いては山を駆けたアキや近くの堤防を走ったアキの姿が思い出され、目に涙があふれた。悲しみの涙ではなかった。アキと暮らした足掛け16年の長い日々、幸せだった日々に浸った涙だと思った。

 ジャスコのCD販売コーナーに入ってブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」とベートーヴェンのピアノ・ソナタ「月光」がセットになっているのを見つけ、買い求めた。ブラームスのピアノ協奏曲は名指揮者と言われたウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮によるもので1942年の収録だった。そして「月光」はウラディミール・ホロヴィッツという懐かしいピアニストの演奏で、こちらは1951年の収録とあった。今のデジタル技術はこうした戦前、戦後間もない時代に収録された音を再生できるんだと感心した。

 家に帰ってステレオのスイッチを入れ、CDをかけると透き通るようなピアノとベルリン管弦楽団との競演が見事に再現された。妻も気に入ったようで台所で料理の準備をしながら「いい曲ね」と喜んだ。ベートーヴェンの「月光ソナタ」が流れた時は台所から出てきてソファに座ってジッと第1楽章の悲しいほどの美しい調べに耳を傾け、目を潤ましていた。まだアキの思い出が緒を引いているのだと思った。

 ベートーヴェンの「月光ソナタ」は高校を出て、秋田市の鉄工所に就職した時に下宿先の小さな部屋で何度も何度も聞いたものだった。第1楽章ではピアノの音がそれこそ山から昇り始める大きな月のように静かに歩み始め、月光が森を照らし、野を照らし、家々の屋根を照らす光景が浮かび、聴いていると自然に涙が浮かんだものだった。

 親元を離れ、初めて就職した職場では日々が辛かった。旋盤を動かす先輩の技術者たちからは仕事が出来ないと「このガキ。何を聞いてたんだ!」と怒鳴られ、まるでその仕返しのように倉庫に山と積まれた鋳物をハンマーで割る作業を与えられた。大きなハンマーを振り下ろして鋳物を割るだけの単純で辛い作業だった。割っても割ってもきりがないほど倉庫には鋳物が積まれていた。

 手には豆ができ、その豆がつぶれて白い液体が流れた。その痛さに顔をしかめ、ハンマーを手放すと旋盤を動かしながらこちらに冷たい目線を送っていた先輩技術者から怒鳴り声が飛んだ。「マメがつぶれたぐらいで何だ。鉄工所の仕事は半端じゃない。力と精神力が必要なんだ」とハンマーを振り下ろす手を休ませなかった。先輩の多くが中学を卒業して技術を身につけ一人前になっただけに工業高校のしかも、機械科を卒業したと言う自分の学歴は彼らには疎ましい存在だった。下宿先に帰って聞いた「月光ソナタ」はいつも悲しみにくれ、希望を失わせた。それでも毎晩、静かに聴いた。

 今で言う〃イジメ〃に似た扱いにそこで働くのに嫌気が差し、数カ月で辞めた。無職になっても家に帰るわけにもいかず秋田市内をブラブラしながら職を探したら、冷蔵庫や電気洗濯機、そしてミシンなどを店頭に飾った小ぎれいな店があり、「営業社員を募集中」の張り紙を目にして飛び込んだ。支店長という人が直ぐに面接に応じ、自分の言葉が秋田弁ではなくきれいな標準語も話せるとあって「営業に向いている」と直ぐに採用なった。その夜からベートーヴェンの「月光ソナタ」は悲しみの曲ではなく、希望の曲となった。

 翌朝、出社してみると営業のセールスマン、セールスウーマンが10人ほど店内に集まっていて、支店長から「今日からこの職場で働いてもらうことになった伊藤君です。皆さんどうぞ彼を育ててやって下さい」と紹介した。みんなニコニコした笑顔で自分を迎え、前の職場とは違った温かさを感じた。しかし、モノを売るという仕事も半端ではなかった。1カ月間、先輩のセールスマン、セールスウーマンに付いて見習ったが、カタログを見せてローンの契約まで話が進んだ件は一度もなかった。

 気の毒に思ったのか、親子ほど年の離れた方が「伊藤君。明日の朝はこれが君の取った契約だと報告していいよ」と言ってくれた。嬉しくて涙が出た。そしてみんなの前で「一本契約を取れました」と報告したら、支店長も仲間たちもみんな拍手を送ってくれた。しかし、セールスという仕事はノルマを達成して初めて満足な給料を貰える仕事だった。

 2カ月目、3カ月目になってもそのノルマは達成できず貰える給料から下宿代を払うと朝夕は下宿で食事にありつけても、昼飯を食べるお金にも事欠いた。夜、下宿先で聞いた「月光ソナタ」は再び悲しみの曲に変わった。

 11月の寒い日だった。先輩の人たちと秋田市郊外で訪問セールスをやっているうちに急激な寒けに襲われた。訪問先の家で動けなくなった。親切で優しい人たちだった。「これはただごとではない」と見知らぬ自分を家に上げ、布団まで敷いてそこに寝かせてくれた。会社から迎えの車が来て直ぐに秋田市の病院に運ばれた。そのまま意識を失い、気がついたら病院のベッドだった。酸素を肺に送り込むビニールの管が鼻に通されていた。

 ろくな食生活もしないで過ごしたため体が弱り、そこへ風邪のウイルスが入りこみ重い症状となった。さらに胃けいれんという病気も重なった。父と母が迎えに来て、横手市の総合病院に転院し、そこで半年間の入院生活をした。夢も希望も失った青春だった。父と母はそれでも自分のため、電車で毎日のように見舞いに駆けつけ、看病した。ひと言の文句も言わずに看病してくれた。そして11月に退院。学生時代から利用していた理髪店を兼ねた新聞販売店の奥さまから「大曲の新聞社で人が足りないと言っているからから行ってみないか」と紹介された。面接に訪れたら、それ以来、自分にとって新聞記者の師匠となった故人の熊谷十郎さんが笑顔で迎え、「高校時代は新聞部に居たんだね。なら原稿は少し書けるかな」と言われ即座に「ハイ」と答えた。そして採用になった。青春は綿の上を歩いているような心もとなさだと思った。小さな新聞社に入ってやっと仕事に意欲が持てた。秋田の下宿先からステレオを運んで、再び「月光ソナタ」を聴いた。今度は悲しみよりももっと大きな希望を与えてくれた。

 懐かしい音楽が入ったCDを横手市のスーパーを歩いて買うことができた。アキがプレゼントしてくれたかもしれない。