膀胱胆石で手術した小犬のパピーの体調に気遣って朝、妻と長い距離を歩くのは控えていたが、傷もほとんどふさがって二人と一匹の散歩が再び始まった。ほぼ20日ぶりの遠出となったが、パピーは疲れを知らないようでとにかく元気に歩く。季節は確実に春の訪れを知らせ、夜の明ける時間も一段と早まり、午前6時ごろには朝が水色に染まる。遠くの東山もその反対の西山も水色に染まって朝を迎える。
妻には黙っていたが先月の会社の健康診断で尿から「糖」が出ていると診断され、お医者さんから再検診を勧められていた。糖が出ると言うのであればまず疑われるのが「糖尿病」だろう。糖尿病は脳卒中など様々な合併症を引き起こし、成人病でも怖い病気の一つと聞いている。さすがにガックリした。
主治医の先生からは肝臓と胃腸の薬を処方してもらっているが、さらに今度は別の医院で糖尿病の治療となっては昨年9月から始まった横手市の耳鼻咽喉科での喉(のど)の治療も含め、3件のお医者さんをハシゴしなければならなくなる。薬代、それに診察費用も3件も重なるとバカにならない。簡単に1万円は超える。タバコを止めた分、月々1万円は浮いていると計算していたが、それがそのまま医療費として消える。何かタバコを止めた意味もなく、とても損をしたような気分だった。
しかし、「糖」が出るとの報告は気になってはいたが検査を受ける勇気が出ず、10日以上もグズグズと二の足を踏んでいた。その間、黙ってもいられず妻に「この前の検査でおしっこから糖が出ている言われてしまって」と告白した。妻も驚いて「あなた。それって大変よ。糖が出るなんて。大事になる前に早く検査して治療しないと」と心配する。そして毎日のように「今日はご飯食べずにお医者さんに行ったら」と勧められた。それでも踏ん切りが付かず「忙しくて今日も時間は取れないよ」と答えていた。実際、多忙な日々が続いた。妻も諦めたように「これから日本酒はできるだけ控えるようにしたら」と小さな声で注意するだけとなった。
しかし、いつまでも放っておけまい。28日の土曜日、朝食を取らず再検診に訪れた。事務の方も看護婦さんも待っていたようで「アッ。伊藤さん。来てくれたんですね」とまるで不登校となった子どもを迎えるような親切さで診察室へと案内した。そして「先生から指示を受けてます。直ぐに採血しますからね」とてきぱきと作業を進め、「月曜日の午後には結果が出ます。その時に先生から説明を受けて下さい」と言う。(今は看護師と言うようですが、あえて看護婦さんと書かせてもらいます)
採血を終えたその足で今度は肝臓と胃腸の薬をもらうため主治医を訪ねた。そこでも採血となった。そして看護婦さんを通じて「糖」が出ているため再検診を受けてきたと話すと、主治医の先生も心配し「私の方でも調べさせて下さい」となった。そちらでの検査はまず朝食を取ってその一時間後に採血し、その血液と尿から「糖」がいくら出るかどうかを診るのだという。
医院を出て近くのコンビニからパンと牛乳を買って朝食とした。そして本屋さんをブラブラし、我が家のかかりつけの電気屋さんを訪ねて時間を過ごした。その電気屋さんの息子さんは自分のパソコンをカバーしてくれている。困った時に電話をすると直ぐに駆けつけ、問題を処理してくれるから助かる。
そのお店で雑談しながら時間をやり過ごし、再び主治医を訪ねた。結果は「糖は出ていないし、心配はありません」だった。そして「多分、そちらの先生の検査でも異常なしと言われると思いますが、一応、結果を教えて下さい」と主治医。月曜日の午後。検査結果を聴きに訪れたら先生はデーターを診ながら「ああ。心配しなくてもいいですね。糖は疲れがたまった時にも出ますがこの数値なら大丈夫です」とニコニコしながら結果を伝え、「伊藤さんはあまり食べる方ではないでしょう」と言う。「ええ。お酒は飲みますが、食べる量は少ないです」と答えると「今の体重を維持して下さい」と糖尿病の心配から解放された。
その解放感があってか2日の県職員の送別会の後、一人で夜の街を飲み歩いた。珍しく足が弾んで3件のお店をハシゴした。お医者さんのハシゴを心配したが、糖尿病というやっかいな病気ではなかったとあって、夜のお店のハシゴは足が軽かった。付き合ってくれたお店の女の人たちたちとも久しぶりに意気投合した。
3軒目に飛び込んだお店はお客さんが誰もおらず、ママさんを独り占めとなった。とまり木に足をかけながら、なぜか作家のヘミングウエーを思い出していた。パリをこよなく愛したヘミングウエーは喫茶店で偶然、隣り合わせた美しいパリジェンヌを見つめながら「ああ。美しい人よ。あなたは今、私のものだ」とつぶやいたとか。
二人きりとなったスナックでその話をし「ママさん。10分だけでいいから、その間だけは自分のものだと思わせてほしい」と気障なセリフを吐いた。「いいわよ」と隣に席を移したママさんは「伊藤さんはおじょうずね」と微笑んだ。美しい目が素敵だと思った。隣り合わせでグラスを交わすロマンチックな夜はあっと言うまに過ぎ、午前0時過ぎの帰宅となった。3月の雪が夜の闇をついて深々と降っていた。その夜以来、春の雪は止まない。今日も降っている。