こちら編集室「春4月を迎えて」(4月2日)

 本格的な春4月がスタートした。大曲市役所では昨日1日、新規採用された職員8人の入所式があった。栗林次美市長から辞令交付を受けた新人8人はフレッシュそのものだった。116人の応募者があって、厳しい試験競争をくぐり抜けて採用された8人である。将来の大曲市、いや来年3月22日の市町村合併が実現すると大仙市の将来を担う若者たちである。今回は青森県や岩手県からの採用もあったという。夢いっぱいの彼ら8人の表情がすがすがしかった。

 ひるがえって我が青春を振り返ってみると「入社式」とか「入所式」と言った晴れがましい挙式は一切、なかった。それもそうだろう。工業高校を卒業して就職した秋田市の鉄工所で新規採用されたのは自分も含め、たった2人だった。指定された日の朝に秋田市の下宿先から出勤し、社長、専務に「よろしくお願いします」とあいさつしただけだった。そして社長からは「おう。伊藤君か。いずれ君にも将来は設計の方をやってもらうが、その前に現場を体験してもらいたい」と旋盤や鋳物工場で働くことを命じられた。

 鉄工所で働く限り、やはり現場を知ってから設計という技術を覚えるのは当然だと思った。それだけに現場に配置されても何ら不満はなかった。だが、自分を迎えた現場の人達は違った。初めて工業高校卒という学歴を持った若者が入ってきたと言うことで好奇の目で迎えられ、不慣れな旋盤を扱ってはミスし、溶接をやっては失敗した。そのたびに「なにやってんだ。このガキ!」と怒鳴られ、罰として鋳物をハンマーで割るだけの単純労働を繰り返し与えられた。

 以前にも書いたが手のひらには豆ができ、ついにはそれが破け、白い液が流れてはその痛さに耐えられず、ハンマーを投げ捨てた。それを見つけられては再び怒鳴られ「マメがつぶれたぐらいで何だ。鉄工所の仕事は半端じゃない。力と精神力が必要なんだ」とハンマーを振り下ろす手を休ませなかった。今で言う言葉による〃イジメ〃と単純で苦しい労働に耐えられず数カ月でその職場を退職した。

 春の夕焼けその旋盤工場と鋳物工場は暗い電気の照明しかなかった。特に廃棄された鋳物を大きなハンマーで割る現場は粉塵にまみれ、滅入るほど陰湿な空気が漂っていた。それだけにその鉄工所を退職した時は「将来、働くなら絶対、太陽の下で、太陽の光りを受けて働ける現場を選びたい」だった。太陽の下でならどんな仕事だって構わないと思った。

 鉄工所を辞めてからは不慣れな営業マンとして働き、その後、身体を壊して半年間の入院生活を送って、現在の小さな新聞社に入社した。新聞社なら外回りも出来るし、太陽の下で、太陽の光りを受けて働けると希望を持った。迎えてくれた先輩記者で編集長の熊谷十郎さん(故人)は「小さな新聞社だが一緒に頑張ってみてくれ」と優しい笑顔で歓迎してくれた。その笑顔に鉄工所とは違う人柄を感じ、ホッとした。

 入社したのは12月だった。新聞社ではこの時期、新年号の発行準備で多忙の日々だった。何も分からずとにかく午前9時までに出社すると「今日はここと、ここ、そして市議会議員のこの人の家、それから根本先生(当時の代議士)の事務所に行って原稿をもらってきて来れ」と命じられた。訪問する家はいずれも大曲市でも名の知れた政治家や名士、文化人ばかりだった。

 社名を名乗って「採用されたばかりの伊藤です」と自己紹介するとどこでも「そうか。秋田民報の新人さんか。頑張れよ」と歓迎された。小さな新聞社でも市民に愛されている新聞なんだと実感し、そこの社員となったことに誇りを持った。訪ねた家では多くが「まあこれを読んでみてくれ」と原稿を自分に渡し、さりげなく感想を求めた。新人と断ってもその人たちはもう一人前の新聞記者、あるいは物書きと自分を高く買って、新年号向けに書いた原稿がどう受け止められるかを期待する。

 相手はいずれも50代から60〜70代の年配の方が多く、しかも高学歴のそうそうたる人たちばかりだ。その人たちが書いた原稿に目を通して感想を述べるなど恐れ多くてできるものではない。ましてや漢詩から得た知識であろう。読めない漢字や意味の分からない熟語が多く、不勉強だった高卒の自分には縁のない世界にしか思えなかった。それだけに読んでも半分も理解できなかった。

 どんな感想を述べるだろうかと相手はただニコニコして待っている。その期待のこもった笑顔を見ると本当に困った。どんな言葉、どんな表現で返したらいいのだろうか。読みふけりながら懸命に考えた。しかし、ない知恵は絞れない。考えた末に出した結論は読めない漢字、意味の分からない熟語は相手に聞くという事だった。

 「すみません。この漢字は何と読むのでしょうか」。開き直ったわけではないが教えを請うた。それがむしろ良かったのか相手は相好を崩し、「それは鏤骨(るこつ)と読み、意味は骨を刻むほど苦労して書くということです」と優しく説明した。魑魅魍魎(ちみもうりょう)とか鞠躬如(きっきゅうじょ)などの言葉や文字もそうした人たちに聞くことで覚えたような気がする。こうして教えを請うことも取材の大切な手段であることを学んだ。同時に本を読む必要性も強く感じた。本からも多くを学んだ。

 若者に教える喜びを味わったその人たちは「これからいつでも遊びに来なさい」と優しく励ましてくれた。ある市会議員は漢字の読みを教えながら、自分の書いた原稿を手に戦時中は天皇の護衛兵である近衛師団の兵士として「二・二六事件」を体験したものだと自慢しだした。「東京でもあの日は君。おれの膝かぶまで雪があってね。驚いたもんだよ。その雪の中を行進し、反乱軍と向かい合ってね」と懐かしそうに語った。そして「あのころに比べたら君、今はいい時代だよ」と語っては、「新年号用には昔の暗い話よりも夢のある話を書いたんだ」と豪快に笑ったのを覚えている。

 入社式も入所式も経験しなかったが、小さな新聞社に入ったおかげで多くの人を知り、多くの人から導かれ、教えを請うた。それが自分の財産となったと思っている。春4月である。入所式を終えた市の職員のようなフレッシュな気持ちになるのは無理だが、彼ら彼女たちの清々しさを目に焼き付け、少しだけ元気をもらおうと思った。