こちら編集室「小説『昭和新山』から」(7月23日)

 やっと秋田も梅雨明けとなった。23日。金曜日午後。暑い。しかし、やっと夏を迎えた。

  先週末からの連休中は雨が多く、スッキリしない天候だったため買い物以外はどこへも出かけず、家でブラブラ過ごした。テレビはあまり観る方ではないが、日曜日、成す事もなくテレビのスイッチを入れたらNHKハイビジョンでHV特集「11代目市川海老蔵誕生」という番組があった。NHK大河ドラマで宮本武蔵を豪快に演じたあの市川新之助さんが、11代目・海老蔵を襲名披露しての舞台で、演じるのは歌舞伎18番の「暫(しばらく)」だった。

 この世界のことは良く分からないが、幕開けと同時に舞台に登場したのは閻魔さまのような風貌をした悪の権化・清原武衡だった。そして筋骨隆々で赤鬼のような姿をした役者たちだった。異様に大きな髪型が目立った。舞台上ではその閻魔さまのような顔の悪人と赤鬼のような悪人、そして武将から腰元たちが華麗に列をなして座り、まるで絵巻物をみるような華やかさだった。

 やがて花道から座布団よりもまだ大きな袖で顔を隠しながら「暫く、暫く」の掛け声で登場したのが、悪人たちをこらしめる豪傑・鎌倉権五郎を演じる海老蔵だった。こちらも怒髪天を突くような髪型、怒りを表したという赤い筋隈、にらみを利かせた時の飛び出すような大きな眼。まさに戦国絵巻を見るような様式と格式を重んじた華麗な世界だった。髭(ひげ)だけを見事なほど長く伸ばした入道・震斉が、先頭を切ってケンカを売ろうとした時、「何じゃ。ナマズの化け物か」と海老蔵演じる鎌倉権五郎が吐いたセリフが良かった。

 約2時間の芝居を固唾を飲んで楽しんだ。観劇を終えた後、女の人たちがインタビューに応えていた。「もう胸がドキドキしちゃった」と感激の表情でマイクに答えていた。その海老蔵の演技のすごさはテレビを観るこちらにも十分、伝わってきた。真っ白な地肌に「市川海老蔵さんへ」の巨大な文字が浮かんだ幕を背景に主人公・鎌倉権五郎が見栄を切って花道を去る姿は背景の幕よりも大きく観えた。役者が自分の背丈よりも大きく見せる技には人間の力を超えた何かが備わっていると思った。

 ブラブラした3日間だが、歌舞伎のおかげでちょっと得した連休にもなった。同時にこの3日間は図書館から借りた新田次郎の小説「昭和新山」を読みふけった。短編なので2回も読み返した。

 新田次郎は大正年代、長野県であった子どもたちと教職員たちの山での殉難死を描いた「聖職の碑」や明治時代に冬の八甲田を踏破しようとして200人を越える軍人が犠牲になった「八甲田山死の彷徨」など山岳を舞台にした名作が多い。その骨太な小説の構成と文体が好きで良く読んだ。

 実は本を買い求める時でも、図書館から借りる時でも一冊の本を選ぶまでは、しばらく時間をかける。なぜか即断即決とは行かない。帯びに書かれた文を繰り返し読んで、時間をかけてチェックする。なぜか本の選択に関しては昔からだが、とても優柔不断となる。

 だから小説を選ぶ時は短編ではなく出来るだけ長編小説を選ぶ事にしている。短編だと半日で読み終えたり、数時間で読み切ってしまうからだ。そうなると苦労して選んだかいがない。新田次郎の「昭和新山」も図書館で目にした時、短編だったので最初は読むのを止めた。しかし、昭和新山そのものに惹かれるものがあって、前にも借りたことがある。 

  それは昭和新山に過去2回訪れた思い出があるからだ。最初は妻と一緒になって間もないころのまだ20代で、北海道へ1週間の日程で旅をした時だった。昭和になってから誕生した火山とあって興味津々で訪れ、赤茶けた山に途中まで登った記憶がある。そして2度目は妻の実家の両親と共に北海道へ3泊4日の旅をした時だった。39歳だったから、もう18年も昔のことになる。だが、それほど昔の事でも妻の実家の両親が昭和新山の前に立った時、「ああ。これがあの山か。戦時中は軍制が敷かれて北海道に新しい火山が生まれたとあっても何も知らされなかった。昭和新山なんていう山があるのを知ったのは戦後もずーと後だったよ」と実家の父が語って聞かせてくれたのを覚えている。自分自身も昭和新山を知ったのは高校時代の教科書ではなかったろうか。

 新田次郎は「最初の地震はひそやかな音を立てて去った。外を歩いていたら気がつかないでいる程度の地震であった。電灯がかすかに揺れた。美松五郎は郵便局舎の彼の椅子でその地震を感じた」と昭和新山誕生の幕開けをそう語っている。

 昭和新山の誕生は昭和18年(1943年)12月26日の激しい地震で始まり、翌19年4月には大地が隆起し、6月23日から噴火を始める。そして10月末まで爆発を繰り返し、ついには地中で固まった溶岩が推し上がる溶岩塔となって昭和20年9月末に標高407メートルの山を造ってその活動を休止させる。

 小説の中に登場する美松五郎こそ、昭和新山誕生までの詳細な観察記録を残した地元、壮瞥郵便局長の三松正夫さん(1888〜1977)である。三松さんは明治43年の有珠山噴火で火山学者の助手を努めた経験もあり、地震の震源地は直ぐ「有珠山」だと判断する。有珠岳が新しい活動を始めたと直感したのである。

 これから登場する人物は小説の中の「美松」さんとしたい。美松は大地が鳴動し、地震が発生する度に記録を残す。12月29日は116回、30日は110回、12月31日は105回と。周辺の住民も火山のことなら美松さんだと頼り、相談する。「井戸の水が熱くなった」「洞爺湖の水が渦巻き状態となって湖底に吸い込まれた」「有珠岳の山麓に変な雲が出ている」などと。鉄道は地面の隆起で持ち上げられ、家は大地の亀裂で傾く。

 美松は不安に怯える住民を力づけ、励まし、時には避難することも勧める。しかし、美松のそうした活動に対して警察は「人心を動揺させ、デマに結び付く」と警戒し、威嚇する。軍部も地震を始めとする天変地異に神経質となり、厳重な報道規制を敷いて秘密のベールに包み込む。

 美松は火山学者が訪れることに期待したが、学者たちも思うように足を運べない。火山活動に神経をとがめる軍部と警察。怯える室蘭測候所長を前に美松は言う。「軍が何と云おうと、火山の活動が戦争にどのように影響があろうとも、誰かがこの地震と地形の変化を見守っていかなければならないでしょう」と。

 以来、美松の昭和新山誕生までの写生による観察記録が始まる。美松にはカメラがあったが戦時下はフイルムさえ自由に買えなかった。だから大地の変動を写生で記録するしかなかった。

 昭和19年(1944年)6月23日、快晴。美松はその日の朝もいつものように家の裏庭で、九万坪方面のスケッチをしていた。8時15分ちょうど、描いている九万坪と松本山との境の当たりから白い煙が真っ直ぐに昇る。白煙は3条の煙となって、やがては爆発し、高さ1キロメートルに達する火柱となる。昭和新山の噴火の始まりである。

 農民たちが次々と郵便局に駆けつけ、噴火の様子を報告しながら、「避難すべきかどうか」と美松の指示を仰ぐ。美松は「これ以上ひどくなったら、いつでも逃げ出せる準備をしておくのだな」と農民たちに注意する。一方で自分は噴火の現場へと足を向けようとする。「みんなが逃げようと云っているのに、あなたは、そこへ行こうというのですか」と妻のつね子が引き止める。局員たちもその美松の無謀な行動を止めようとする。しかし、美松は爆発の収まった火口をその目で確かめたいと噴煙目掛けて走り出す。

 火口ではその温度を測定しようとして、すり鉢型となった底に引きずり落ちていく危険も味わう。命懸けの義務感と責任感に感動する。

 噴火は10月31日夜の大爆発まで17回繰り返す。その間に戦地に赴いた二人の息子を失う。美松夫妻に残されたのは長男・正一の妻が生んだ女の子だけだった。しかも、その子の母も出産と同時に亡くなるという不幸を伴った。

 美松に残された使命感は噴火する山しかなかったのかもしれない。昭和20年(1945年)8月15日の敗戦の日の翌日も美松は新山に登る。噴火は収まったとは言え、火山性ガスが立ちのぼる危険な山だった。それでも山に登ったのは二人の息子を戦争で失い、生きる価値を求めるのは新しく生まれた火山しかなかったのだろう。そして美松は学者から山に名前を付けてくれとの要望を受け、「昭和新山」と名付ける。

 美松はその新山から良質の硫黄が採れることから鉱山師によって山が荒らされるのを恐れ、「おれはあの新山(やま)を買うぞ」と決心する。火山という学問のためにも山を荒らさずに後世に残したいと美松は云う。「山を買うお金はどうするのです」。正気かという顔で問う妻のつね子。「土地を売るしか方法はない」と美松。「先祖さまがお許しになるかしら」と戸惑うつね子。

 だが、戦後の混乱も終息すると観光ブームとなり、洞爺湖から昭和新山まで観光用道路が整備されると年間50万人を超す観光客が訪れるようになる。著名な観光業者が美松を訪れ、新山を売ってくれと頼む。3000万円という値段が付いた。美松は「研究のために買った山であり、儲けるためでも観光用にするためでもない」と断る。その話が新聞でも話題となって次々と山を買いたいという人が出る。評判は評判を呼んで3億円という値段さえ付いたと言う。しかし、美松五郎は山を手放さなかった。戦後の生活はわずかばかりの恩給しかなく、生活は苦しかった。

 美松と親しい農民の一人・北条忠良は戦後の観光ブーム到来と同時に昭和新山近くにお土産店を開いて大繁盛する。その北条が3億円もの値段が付いても新山を手放さない美松に対して言う。

 「おれはこの前、局長さんを利口だと云ったが、やはり局長さんはばかですね、新山を売ろうとしないばかりか、新山を見に来る人から観覧料を取る方法も考えようともしない、あなたの新山だから儲けようと思えばいくらでも儲けられるはずだ。それだのに儲けようとしないのはほんとにばかな人ですね、局長さんは」と。これに対して美松は答える。「ばかかもしれないが、そのお陰で大ぜいの人が儲けているからそれでいいではないか」と。私利私欲を捨てた美松の言葉が良かった。

 1986年9月。妻の実家の両親と昭和新山を訪れた時も山肌は不気味な赤さだった。しかし、どこか美しい貴賓を感じさせるものがあった。それは美松五郎こと三松正夫さんの昭和新山に寄せた私欲のない愛情から来るものだったのかもしれない。いつかまた機会を見つけて訪れてみたいと思った。