お盆も終わった。13日夕には父と母の眠るお墓参りも済ませた。お墓の前と自宅で迎え火を焚いて二人の霊を迎えた。妻は仏壇にも料理をあげて見えぬ二人を迎えてくれた。お盆の夜は二人と小犬のパピーとでささやかな乾杯を交わし、過ぎ行く夏を見送り、過ぎ去った遠い過去を顧みた。
父が亡くなったのは25年前の9月であり、自分が32歳の時だった。その年の2月に母が脳卒中で倒れ、仙北組合総合病院に入院した。その母を病院に泊り込んで父は看病した。しかし、母が入院してから1週間後にその父が今度は病院で倒れ、入院した。肺ガンだった。父の主治医から呼ばれ、肺に影のあるレントゲン写真を見せられ「お気の毒ですが後、半年の命でしょう。77歳ですから日本人男性の平均寿命を上回ったと思って諦めて下さい」と死の宣告をされた。
ガンという死の病はわが家には無縁だと思っていた。ましてやまだ32歳の自分には父がそうした死の病に罹るとは思ってもいなかった。ショックを隠しきれずに秋田の姉に電話で泣きついた。姉は「マア。そうか。ジッチャがそんな病気になったか。かわいそうにナ。マア。頑張って頼むよ。頼れるのはマアだけだからな」と電話で答えた。
その日から妻と共に病院に泊まり込み、右半身不随となった母のベッドの下で寝起きする生活となった。深夜に2度も3度も目覚めては「トイレに行きたい」と訴えた母。その都度、廊下から車いすを運んで乗せ、トイレへと走った。まだ若かったとはいえ、日中は勤務し、夜は寝たきりとなった母の看病という日々は辛かった。特に妻は寝不足と疲労が重なって、観ているのさえも気の毒だった。
それでも笑顔を絶やさず父と母と接してくれた。母は4階に入院し、父は5階の病室だった。入院して数カ月は父の病状も落ち着いて、朝と夕方の食事時になると父は5階から下に降りてきて寝たきりの母に「なんただ」と見舞いの声を掛けた。身体の自由を失った母は「情けない。こんな身体になって本当に情けない」と入院当初は毎日のように泣いたが、そのころはすっかり諦め「こんな身体でも自分の身体だ」と付き合っていた。
そして父を迎えては「おらだばえどもジッチャはなんただの」と病状を聴いた。「おらも変わらね」と父が答えれば母も「ンだか」。ただそれだけのやり取りが毎朝夕、繰り返された。それでもどうにかこうにか一家4人が同じ病院で過ごせることに喜びを感じていたのか、父は寝たきりの母のベッドに腰を降ろしてはいつも幸せそうな笑顔を見せた。
完全看護とはいえあの頃は、脳卒中患者の入院している病棟は家族か、付き添い婦を頼んで面倒を見たものだった。同病相哀れむ仲と言うが、一つ病室で暮らす6人の病人の家族はそれこそ一つの家族となって助け合い、慰め合った。
5月、6月と父の病状は変わらなかった。病院では放射線治療でガンを叩く方法を取っていた。病院近くに駐車場を借り、日中も仕事の合間を縫って父の様子を見に行くといつもスヤスヤと気持ち良さそうに眠っていた。その顔を観て安心して母の病室に行くと、母はリハビリ室での訓練でベッドは空だった。歩く訓練を受けていた母は「マア。来てけだか」と笑顔を見せ、「やっとここまで歩けるようになった。ジサマにも見せてナ」と笑ったものだった。しかし、歩けるといっても手摺りにつかまってやっと歩けるだけで、廊下の移動に車いすは欠かせなかった。
ある日の午後、リハビリを終えた母を迎えに行くと「アイスクリームが食べたい」と言い出した。売店に連れて行って好きなアイスクリームを選ばせ、売店近くの廊下でそれをなめながら過ごしていたら母は「マア。ジサマの病気は何なんだ」と厳しい表情で問いただした。父の病名は母にも教えていなかった。教えたのは東京近郊に住んでいる兄たちと秋田市と自宅近くに住んでいる姉だけだった。もちろん、兄弟たちには「決して言わないように」と釘を差しておいた。
アイスクリームをなめながら父の病気を問いただした母は思い詰めた様子だった。他の患者さんがいる病室では聞けなかったため、わざわざ「アイスクリームを食べたい」と売店まで連れて行かせ、二人きりになれる場を探していたのだろう。母に問いただされてもやはり本当の事は言えず「あまり良くないんだ」と言葉を濁すしかなかった。母はいくぶん悟ったようで「ンだか。えぐねが」とだけ言った。その時見せた母の顔の寂しい表情は未だに忘れられない。
売店近くの廊下でアイスクリームをなめ合う自分たち親子を見た母の病棟の看護婦さんは仲むつまじい光景だと思ったのか、天使のような笑顔で近づき「おばあちゃん。いいこと、いいこと。息子さんからアイスクリーム買ってもらって」と声を掛けた。母はそれまでの思い詰めた顔をとっさに変えて、しわくちゃの笑顔でその看護婦さんに応えていた。「んだ。おらえの息子も嫁もおらがたどこ良く面倒観でけるがら助かる」と自慢した。
7月。暑い夏が来た。父は次第に眠ったままの日々が多くなった。4階の母の病室に来る日も少なくなった。母は「ジサマ。何としてるべ」と心配した。夕食を終え、母を車いすに乗せて5階の病室を見舞うと父は弱々しい声で「来たが」と母を迎えた。抑揚のない父の声が哀れで、母を病室に置いたまま外に出て廊下の隅で黙って泣いた日々が続いた。
8月。すっかり弱った父だったが、寝たきりの母と「今日は盆だから、一晩だけでも家に帰ってみたい」と望む父を車に乗せて帰宅した。家中の窓という窓を開け放ち、妻と二人で父と母の布団を敷いて寝かせた。まだろくに歩けない母は妻と二人でその不自由な身体を支え、車から運んだ。母以上に弱った父だったが、母を運ぶ様子を車の中から眺めながら「マア。和子。バッチャどこ転ばすなよ」と心配して声を掛けた。その父は自ら歩いて家に入り「ああ。わが家はいいなー」と喜んだ。
しかし、夕方になると病院から離れたことに急に不安になったのだろう。父は布団に寝たまま「マア。和子。何とか病院さ連れて行ってケレ。何とか病院さ連れて行ってケレ」と何度も何度も叫んだ。母も見かねて「マア。ジサマどこ連れて行ってやってケレ」と寝たきりのまま頼んだ。
せめてお盆だけでも親子4人が家でそろって迎えたいと楽しみにしていたが、父のただならぬ懇願に諦め、再び父を車に乗せて病院に送り届けた。ベッドに寝転んだ父は「ありがとう。おれはもうこの病院から離れられない身体になってしまったようだ」と弱音を吐いた。妻は怒ったような声で「お父さん。そんな弱気だすもんじゃないの」と叫んだ。自分も「そんなことはない。先生はもう少しすればもっと良くなると言ってた」と言いながらも涙声になっていた。
その日から父は次第に弱り、見舞いに来た母の姉妹を前に人前も憚らず「おれはもう助からない病気になったようだ」と泣き、「お世話になったな」と涙を流した。見舞いに来た人たちもそして自分もただ涙を見せたくなくて病室から飛び出した。
9月。父は大部屋から個室へと移され、自分たち二人も母のベッドの下で眠るのを止めて父の個室へと移ってそこに寝泊まりした。個室では夜になっても電気を付けるのを嫌がった。父は暗い部屋でただ黙って眠るのを希望した。そして呼吸の苦しさも、胸の痛みも口にせず、亡くなる9月27日までジッと我慢して旅立った。母は父が亡くなって9年後の2月11日朝、お世話になっていた特別養護老人ホーム「欣寿園」で88歳で亡くなった。欣寿園で生活することになった母を寂しがらせてはいけないと父が亡くなってからも毎日朝夕には顔を出した。「来てけだが」。母はいつもたったひと言、そう言うだけだった。
13日夜。迎え火を焚きながら走馬灯のように目に浮かんだのはお世話になった看護婦さんたちの顔だった。