初冬への入口でもある11月を迎えた。1日は千畑町と六郷町、仙南村とが合併し「美郷町」の誕生であり、その取材のため午前7時半には自宅を出て六郷町へと向かった。町長室が開設される六郷庁舎では午前7時50分から、町長職務執行代理者となった藤嶋長右エ門前千畑町長らによるテープカットなどのセレモニーがあった。
一連のセレモニーによる美郷町の誕生を見届け、さらに午前9時から六郷庁舎で開かれた選管で、美郷町初の町長選の日程が決まるのを待ちながら、庁舎の廊下でパソコンを開いて原稿を打った。会議が終わるまで2時間の待ち時間があり、その時間を利用しての原稿書きである。取材先で会議が終わるのを待ちながら原稿をまとめるという作業は、紙と鉛筆の時代では考えられなかった。これもパソコンという機械が生み出した便利で気ぜわしい時代なんだろうと思いながらも、時間を無駄にするわけにはいかないとキーボードを打ち続けた。
こうした作業のスピード化で美郷町誕生の記事も午後1時半には仕上がり、印刷を待つ会社に原稿の入ったフロッピーを届け、ケンニチにも午後1番に記事掲載を終えた。平成の大合併では美郷町が県内のトップを切るとあって、新聞、テレビの各社はカメラマン、応援の取材記者を繰り出すなど特別態勢を取っていた。こちらは相変わらず一人での取材だった。そのせいか、原稿を仕上げ、ケンニチのニュースの更新を終えたらいつもと違った疲労感がたまった。
結局、何も手につかず自然の空気が吸いたくなって、内小友の県立農業科学館の樹木園を訪れた。天気は雨となって、手にした傘をパラパラと雨が叩いた。樹木園は雨に濡れ、ひっそりとしていた。寂しいが、絵のような風景でもあった。トチノキ、カシワ、ミズナラは赤茶色に紅葉し、ケヤキの葉っぱはくすんだ黄色に染まり、イチョウは鮮やかな黄色にヤマモミジは燃えるような赤だった。
紅葉した葉っぱはハラハラと音もなく散り、大地を赤や茶、黄色に染めていた。その落ち葉は雨に濡れ、一層の輝きを増しながら大地と一体となっていた。重なり合い、濡れながらも宝石のような美しさを保っていた。その一枚一枚が、春に生命を得て以来、光を受け、風とたわむれ、雨に洗われ、夏の陽射しに耐え、秋と共に生命の終焉を迎えたと思うと哀れさと愛しさで心切なくさせた。
春から秋までの短い生命だが、木々から伸びた枝を母に葉っぱたちは小さな芽から成長し、朝は季節の歌を歌い、夜は月の光で生を楽しみ、風が吹いては風を友とし、雨が降っては雨を友として遊び、夏の暑い盛りは憩いと涼を求めて来た人たちに優しい木陰を与えてくれたのだ。その葉っぱたちが生命の終焉を迎え、ハラハラと音もなく散り、大地に横たわっている。雨に濡れて宝石のように光り輝いている。やがてその光りも失い、雪の下に埋もれ、朽ち果てて土に返ることだろう。
それが「自然なんだよ」と昔、読んだ絵本「葉っぱのフレディ─いのちの旅─」は教えてくれた。「とても感動的な絵本だ」と新聞の書評覧で評価されていたのを読んで、買い求めたのは確か1999年の秋だった。アメリカの哲学者レオ・バスカーリア博士が子どもたち向けに「いのち」について書いた本で、みらい・なな訳だった。
樹木園を歩いているうちにその本を思い出し、家に帰ってから再びひもといてみた。葉っぱに「フレディ」とか「アルフレッド」、「ベン」、そして女の子には「クレア」と名前を付けた柔軟でセンスの良さ、発想の素晴らしさに感心すると同時に、読み進めているうちにいつの間にかフレディは葉っぱではなく、人間そのものに思えて仕方なかった。自分の心はすっかりフレディと一体化し、フレディが自分の中に移り住んだように同一化した。
春に生まれ、夏には「葉っぱに生まれてよかったな」と思うほど喜びを感じ、仲間と共に木陰を作って暑さを逃れてやってきた人たちに涼しい風も送った。
しかし、楽しかった春も夏もあっと言う間に過ぎ、10月には寒さが襲って来た。葉っぱたちはその寒さにぶるぶると震え上がる。そしていつの間にか紅葉し、フレディもアルフレッド、ベン、そして女の子のクレアも赤や黄色、深い紫色と変わる。夏には友だちだった風が別人のように顔を強張らせ、襲いかかる。葉っぱは吹き飛ばされ、散り始める。ダニエルの叫びが悲しい。
「みんな 引っ越しをする時がきたんだよ。とうとう冬が来たんだ。ぼくたちはひとり残らず ここからいなくなるんだ」
そしてアルフレッドもベンもクレアもみんな引っ越していく。葉っぱが木の枝から離れていく。引っ越しとは葉っぱの死そのものである。
「引っ越しをするとか、ここからいなくなるとか きみは言ったけどそれは死ぬ ということでしょ?。ぼく死ぬのがこわいよ」。
死を恐れるフレディの言葉が悲しい。同時に友人・ダニエルの言葉の重さも胸を打ち、心にしみる。
「まだ経験したことがないことは こわいと思うものだ」と死の怖さを素直に受け止めながらも、「君は春が夏になるとき 怖かったかい。緑から紅葉するとき怖くなかったろう」と話しかけ、「死」も変わることの一つなのだとダニエルは諭す。そしてダニエルも去り、フレディ一人となる。雪が降り、真っ白な朝にフレディは風に運ばれ、枝を離れ、引っ越しする。柔らかくて意外と温かいふわふわした居心地のいい所でフレディは目を閉じ、眠りに入った。それは痛くもなく、こわくもなかったと作者は訴える。
フレディの死は悲しいが、冬が終わり、春が来て、雪はとけ、水になり、枯れ葉のフレディはその水に混じり、やがては土に溶け込んで木を育てる力になる。それが自然の設計図だと作者は述べる。
翌日、再び県立農業科学館の樹木園を歩き、〃いのち〃の変化は自然なことだと胸に刻んだ。散り行く枯れ葉のバラードは寂しいが、それが自然だと思うと温かみがあった。自分も枯れ葉のような最後でありたいと願った。