妻の実家から着物を一反、いただいた。正確に言えば10年前に77歳で亡くなった妻の父が生前、長年の消防功労で叙勲を受けた時、そのお祝いにとプレゼントしたのを実家の母が、「このままタンスの中に眠らせておくのももったいない。マサオさんが着れるものなら着てもらいたい」とクリーニングに出して持ってきてくれたものだった。紺色の上品なアンサンブルの和服は素敵だった。妻も「せっかくだから普段着として着たらいい」と勧める。長襦袢を呉服屋さんに注文し、この冬は和服姿で過ごすことにした。何か作家になったような気分だ。
着物で思い出した小説がある。太宰治の「晩年」と題した中の「葉」である。
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目(しまめ)が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
夏に着る着物をもらったから夏までは生きよう。何て刹那的で悲しい生き方だろう。太宰は自らの死をテーマに小説を書き、死を実行した。死ぬことで太宰は自分の作品の完成を目指した。好きな作家だったが、死ぬ以外になかったろうか。太宰の小説を思い出すと気持ちも沈む。
妻の実家からいただいた着物を前にして、なぜ太宰のこの暗い小説を思い出さなければならないのかと自分自身まで悲しくなった。妻は「父さんのために作ってもらった着物だから少し背丈が短いし、伸ばしてもらわないと着れないようね」と言いながら、「せっかくだから長襦袢も作ってもらって、きちんとした恰好で着たらいいわ」と日曜日に市内のデパートへと足を運び、呉服販売部で着物の直しと襦袢を注文してくれた。
そうした明るく行動的な妻の計らいが嬉しくて、太宰の小説の陰鬱さから抜け出せた。太宰風に書くと「妻の実家から着物を一反もらった。亡くなった実家の父の形見としてのプレゼントである。着物は紺色を地肌にしたウールのアンサンブルだった。冬物である。正月はその着物を着て過ごそうと思った。妻の実家の母の配慮が嬉しかった。子どももなく、妻と小犬のパピーとの寂しい生活だが、明るく楽しく生きようと思った」。
着物と言えば高校を卒業して秋田市の会社に就職して間もなく、職場での人間関係から精神的に挫折し、さらに不規則な食生活の貧しさから体を壊し、半年ほど平鹿組合総合病院に入院したことがある。そのころ病院ではなぜか入院患者のほとんどが着物姿だった。
患者さんたちは皆、自分よりも10歳から20歳も年上なのだが、和服姿でベッドで生活している姿がまぶしいほど美しく見えた。自分も着物を着てみたいと思ったが、行商で細々と生活費を稼いでいる父、縫い物で何とか家計を助けている母を思うと贅沢は言えなかった。
しかし、週1回、二人で見舞いに来ていた父と母は秋になって冷え込んできた病室で寒そうに過ごしている自分の姿を見て、何とかしてやらなければと思ったのだろう。次の週に来た時は母が風呂敷包みから藍色の着物を取り出し「マア。これ作ってけだがら着れ」と顔をほころばせた。「エー。着物作ってくれたの」。「ンだ。おれの縫い物仕事でマアさ着物買って、縫ったんだ」と母はニコニコしながら着せてくれた。
あの時の父の笑顔も、そばにいた看護婦さんの「マサオさん。良かったね」と言ってくれた優しい言葉も忘れられない。母は着物の生地を買うだけで精いっぱいだったろう。下着となる襦袢は浴衣だった。しかし、文句は言えなかった。浴衣の上に母が買って縫ってくれた着物を着た。とても晴れがましい思いで病院の長い廊下を歩き、自慢したものだった。
その着物は今もタンスの中で眠っている。妻の実家から着物をいただいた時、「マア。襦袢も作ろうか」と妻が言ったのは多分、昔着た着物には襦袢がなかったことを覚えていたからだろう。「せっかく、着物を着るのならあの絹のような生地で出来た襦袢も欲しかった」と昔の思い出を話したのを覚えていたのだろう。そうした配慮が嬉しかった。
着物の思い出にひたっていた10日午後、アメリカの岩間さんは秋田新幹線「こまち」で予定通り、大曲入りした。妻と大曲駅で出迎えた。そして角館町の武家屋敷通りを案内し、夕方にはわらび座の「温泉ゆぽぽ」に入った。ビジネスで中国の蘇州や上海などを回って来たという岩間さんは温泉に浸かるとゆっくりしたようで終始、笑顔だった。
アメリカ生活がもう20年以上にもなるせいか、ホテルでは浴衣への着替えを勧めたが「いや。伊藤さん。僕はもう浴衣が苦手なんで、これでいいですよ」と着てきたジャンパー姿を変えなかった。
「ゆぽぽ」ではケンニチの技術的な面でサポートして下さっているデジタル・アート・ファクトリーの海賀孝明さんにもお付き合いを願って、和風レストランでの夕食会となった。地ビールを注文し、岩間さんのために秋田の料理の代表でもあるハタハタの「しょっつる鍋」も注文した。そして持参していった川ガニのカニミソも「ゆぽぽ」のレストランでは気持ちよく受け入れ、それを振る舞った。
カニミソは海賀さんも岩間さんも初めて口にするもので「美味しい」と喜んでくれた。話をしていて栃木県出身の海賀さんの言葉が印象に残った。海賀さんは「秋田に住んでみて一番の感動は美味しいものが本当に多いということでした」と話した。キリタンポ、しょっつる鍋など鍋物から漬け物まで秋田には美味しいものが本当に多いと海賀さん。岩間さんもその話には興味を引かれたようで熱心に耳を傾けていた。しかし、以前にお土産として持たせた「いぶりガッコだけは参りました。九州出身の妻もあの漬け物だけは臭いが気になって食べれなかった」と笑った。なるほど美味しいものの産地・秋田でもよその人が苦手とする味もあるのかと思った。
とにかく二人ともカニミソ料理は気に入って来れて良かった。話の合間に岩間さんから「伊藤さん。今度の秋田入りの目的は来年はぜひ伊藤さんご夫妻をニューヨークへ案内したいということで来たのです。どうです。昨年の西海岸の旅に続いて今度はアメリカ東海岸を歩いてみるのは」とのお誘いだった。同席していた妻も乗り気となって「ねえ。また岩間さんに迷惑かけるけどお願いしようか」と決心した。「ああ。いいですとも」と岩間さんは快く引き受けた。
そして「来年9月初旬から1週間くらいの日程の旅行行程を作りましょう」とも。その岩間さんにお願いした。「ニューヨークでは映画『ウエストサイドストーリー』の舞台となった街を歩きたいのですが」と。「ああ。あの映画ね。いや、昔だったら危なくて歩ける場所ではなかったけど、今は治安もいいし大丈夫。行きましょう」と岩間さん。ニューヨークの映画の舞台となった街を歩ける。嬉しい夢が広がった一夜だった。実家から頂いた着物。そして岩間さんからのニューヨークへのお誘い。心配していた大腸の検査結果もお医者さんの診察では憂慮するものはなかった。年末、嬉しい話が3件続いた。そして今日、大曲仙北は白い朝を迎えた。