こちら編集室「思い出の小説」(1月7日)

  新しい年も明け、4日から仕事もスタートした。大晦日の夜は妻と乾杯の後、ビールを1本空け、それから日本酒を口にしながらNHKの紅白歌合戦を観た。マイクを手に汗を飛ばしながら一生懸命に歌っている歌手、一方で華麗な舞台を創り出したスタッフの方には申し訳ないが、若い人の歌の一部には歌と言うより、乱暴な〃叫び〃にしか思えないものもあった。これも仕方ない。年代の違いからだろう。中でも英語と日本語とが混ざり合った歌になるとその内容がまったく意味不明で理解不能に陥り、聴いているこちらは画面を観ているのさえ苦痛だった。結局、椅子に座ったまま酔って眠りに落ち、夢の中で過ごし、歌合戦は朦朧とした中で終わっていた。

  余り演歌は馴染めないが、昔、森進一の「北の螢」を初めて耳にした時はその歌詞の見事さに思わずうなったものだった。石川さゆりの「津軽海峡冬景色」を初めて聞いた時にも、竜飛崎を中心とした北の海峡の厳しい冬景色が目の前に浮かんで来るようで、感動したものだった。どちらも阿久悠の作詞でまさに言葉の天才だと思った。

  北の螢では

  山が泣く  風が泣く  少し遅れて  雪が泣く

  と歌った。北海道の冬の厳しさが「山が泣く」という言葉に、「風が泣く」という言葉に、「雪が泣く」という言葉に凝縮され、そこで生きる男と女の悲愴なドラマがひしひしと胸に迫って来るようだった。「ホーホー  螢  翔んで行け  恋しい男の胸へ行け  ホーホー  螢  翔んで行け  怨(うら)みを忘れて  燃えて行け」が良かった。作詞家・阿久悠の言葉づくりの巧みさ、言葉選びの見事さ、表現力と構成力のセンスの良さにただ「ウーン」とうなるしかなかった。

  田沢湖町の仙岩峠で写す「上野発の夜行列車  おりた時から」と歌い出す「津軽海峡冬景色」の歌詞はまるでドラマでも観るようなリアリティがあった。津軽海峡を連絡船で越える女の悲しみが聴くものの心を涙色に染めた。傷ついた女一人。冬の津軽海峡を渡る。

  「北へ帰る人の群れは  誰も無口で  海鳴りだけをきいている」。

  この詞にこそ北国特有の重苦しい鉛色の空と厳しい寒さ、雪に耐えて生きる北国の人の心と姿が描き出されていると思った。

  厳冬の2月、車で津軽半島へと一人旅をしたことがある。太宰治の小説「津軽」を手に能代市から青森へと入り、深浦、鯵ヶ沢、そして太宰の故郷・金木町を歩き、車力村から小泊へと向かい、龍飛崎に立ったものだった。

  太宰は自分とは逆のコースで青森から蟹田、三厩と歩いて竜飛崎に入った。太宰は龍飛に近づくと「2時間ほど歩いた頃から、あたりの風景は何だか異様に凄(すご)くなってきた。悽愴とでもいう感じである。それは、もはや、風景ではなかった。風景というものは、永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、謂わば、人間の眼で舐(な)められて軟化し、人間に飼われてなついてしまって、高さ35丈の華厳の滝にでも、やっぱり檻の中の猛獣のような、人くさい匂いが感じられる」と書いた。つまり竜飛崎周辺は人の匂いさえ感じさせないほど野性っぽい風景だというのである。

  激浪に洗われる竜飛崎周辺の荒涼とした風景を太宰らしい見事な言葉の力で表現した文章で、大好きだった。もう20年以上も前だが、冬の竜飛崎に入った時は自分も本当にそう思った。「これはもう風景じゃない。野性の動物のようなものだ」と。荒々しい岩と墨を溶かしたような黒い海の水が怒濤となって戦いを繰り返しているのである。

  その龍飛を歩いた。太宰の文学碑があった。

  「ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘記せよ。諸君が北に向かって歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである」

  切り立った断崖絶壁。墨を溶かしたような波が岩場を洗う。岩と波との戦いがこの竜飛崎では何億年、何千年もにわたって繰り返されてきたのだろう。車一台がやっと通れる程度の岩を切り開いた洞窟の道路もあった。家々は海に向かって肩を寄せあうように立っていた。激しい吹雪のためだろう。板を縄で束ねた頑丈な雪囲いが家々を守っていた。その板の雪囲いが海辺から吹き寄せる粉雪で真っ白に染まっていた。

  人はこうした所でも自分の生まれ、育った大地であるのだと生活し、土を耕し、海に出る。竜飛崎こそまるで演歌の世界だと思った。龍飛から小泊へと向かい夕方、小さな宿に入った。厳冬の2月。しかも暗い表情をした男の一人旅。宿の女将さんは宿泊を受け入れてはくれたものの、その目には警戒心があった。

  風呂に入り、下の小さな食堂に入ると青森弁の男たちが数人、テーブルを囲んでお酒を飲んでいた。こちらも離れたテーブルに席を取り、ビールを注文した。客は青森弁の男たちと自分との2組しかなかった。一人で黙々とビールを飲んでいたら、一人の男が寄ってきて「お客さん。どちらから来たんすか」と聞いた。

  「秋田ですよ」。「ホー。秋田から。また何でこんな寒い時に小泊なんて所に来たもんだしか」とまるで尋問するような調子となった。男は「俺たちは電気工事でこの宿に泊まりながら作業をしているんだ」とも言った。

  話し相手もなく長旅をしてきた自分にとって、男から声をかけられたのはむしろ渡りに舟だった。手にしていた太宰の小説「津軽」を相手に見せて「実はこの太宰治の小説に惹かれて、どうしても竜飛崎と小泊を歩いてみたいと思ったのです。しかも、冬の津軽半島を」と言った。

  相手は意外と饒舌な自分にホッとしたのか「なーんだ。お客さん。あれしに来たのではねのか」「え。アレッて」「アレか。ここの女将さんからこんな時期に一人で泊まりに来た客がいて、もしものことがあっても困るから、みんな気をつけておいてもらえないか」と言われたのだと言う。

  それを聞いて自分も笑い、そばで聞き耳を立てていた男の仲間たちも大声で笑った。そして「お客さん。おめも変わった男だな。気に入った。飲むベ。飲むベ」とその晩は思わぬ宴会となった。

  小泊に泊まったのは太宰の幼いころ、太宰の実家・津島家に奉公し、親代わりとなって太宰を世話した越野たけさんの嫁ぎ先があり、その周辺だけでも歩いてみたいと思ったからだ。小泊の小さな町を歩いていると、小説「津軽」にも出てくるたけさんの「間口3間くらいのこぢんまりした金物屋」が意外と簡単に見つかった。ガラス戸は吹雪で白く染まっていた。ここが「たけさんの家か」としばし立ち止まった。

  小説「津軽」に登場する小泊の小学校の運動会の会場で出会う太宰とたけのシーンほど涙を流して読んだ小説はなかった。
 
  たけは、うつろな眼をして私を見た。

  「修治だ」。私は笑って帽子をとった。

  「あらあ」。それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。でもすぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないような、へんに、あきらめたような弱い口調で「さ、はいって運動会を」と言って、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りなりせえ」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言わず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちゃんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見ている。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思う事が無かった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような無憂無風の状態である。平和とは、こんな気持ちの事をいうのであろうか。
 

  母とはこう言うものだろう。そばに座っているだけでホッとし、無憂無風のぼんやりとした平和な穏やかな心にひたれる。この後に続くたけさんの「30年ちかく、たけはお前に逢いたくて、逢えるかな、逢えないかな、とそればかり考えて暮らしていたのを」の長いセリフほど泣かされたものはない。久しぶりに小説「津軽」を思い出していた。

  年末からカゼを引いた妻。元日の朝にはとうとう休祭日救急医療センターのお世話になった。そのカゼから抜け出せないうちに今度はこちらもカゼを引いて、主治医のお世話になった。38度2分の熱があった。いまだに寒けがして、表に出るのが怖い。外を見ると白い大きな雪がしんしんと降り続けている。