教えてもらいたいことがあって角館町役場に電話したら、電話に出た相手の職員は「ああ。伊藤さん。カゼはどうですか」と心配してくれた。温かく、思いやりのこもった言葉にジーンと来るものがあった。携帯電話を握りしめながら、「ああ。この人も先日書いた『こちら編集室』を読んでくれているんだ」と親しみが沸いた。
週1回、四苦八苦しながら書き綴っている〃こち編〃。様々な読者が自分の拙いエッセーや身辺雑記を読み、時には同じ世代の共通の思い出として懐かしさを共有したり、子どものころや青春時代のほろ苦い失敗を思い出したりしているようだ。また、雪国を知らない読者には雪国の厳しい生活を知る一つの標にもなっているのも最近、知った。そして読者と「秋田県南日々新聞」が、見えない糸で結ばれる〃心の窓〃として親しまれているのも、これまでのさりげない反応で感じ取っている。ありがたいことだ。
同時に書くということの怖さ、責任の重さも痛感する。そのプレッシャーに「なぜこうも苦労しなければならないのか」と投げ出したくなるような衝動にとらわれ、同時に浮かんで来ない言葉に焦り、パソコンを前に檻の中のトラのように行ったり来たりし、ウンウン、呻吟する。
そう言う時に限って悪魔のささやき、魔の映像がチラチラと目に浮かぶ。タバコがほしいのである。
先日、若い女性がくわえタバコをしながら自宅近くの曲がり角を危ないなと思うほどのスピードで走り去った。タバコをくわえながら、両手はハンドルを握って目線は鋭い流し目にし、90度のT字路カーブを風のようにスーッと曲がったのである。
そのスピードに「乱暴だな」と思うと同時に「恰好いいナ」と変に同調した。相手は軽乗用車だったが、タバコをくわえながら颯爽と車を運転する姿が妙にあだっぽく見えたのである。車はアッという間に過ぎ去ったが、なぜかその時、道路を隔てた向かいにあるタバコの自動販売機が大きく目の前に迫ってきた。
「さっきの女の子のあのくわえタバコ。絵になっていたな」と思いながら、いつの間にかその自販機の前に立っている自分に気が付いてドキリとした。そして「買っちゃおうかな……」とさえ思ったのである。「一本ぐらい吸ったって、どうってこともないだろう」と自分で自分を説得した。タバコをくわえながらハンドルを切って、目の前を風のように通り過ぎた若い女性の姿がチラチラと目に浮かび、どうしようもなくタバコが吸いたくなったのである。
ズボンの中のポケットにあった小銭入れの中身を数え、1カートン買えるお金が入っているのを確認したら、「止めなさい」という声がどこかから聞こえた。「今、タバコを買って1本でも吸ったら、またタバコがないと生活できない体になるのよ」とも、その声は言った。そして「私を観て!」とも叫んだ。振り返ったら霞んでいた東山がかすかだが家々の屋根の上から姿を現していた。しばらくの間、雪空の下に隠れていた東山がその時、自分のために姿を現してくれたと思った。山肌は雪の白ではなく、青いインクを溶かしたような優しい水色をしていた。
いつだったか。強い喪失感にとらわれ「あの山まで行けたら」と生まれた時から見ている東山に憧れ、東山に救いを求めた。その東山がそれ以来、自分に語るようになった。春になると「もう雪も消え、私の子どもたちもいっぱい優しい緑の葉に育っているから遊びにお出で」と呼びかけ、夏になると「いつだって私はあなたを観ているのよ」と一体感であることを強調した。そして昨年の秋。散歩中、道路を横断中のカタツムリを見つけ、車の下敷きにならないようにと指でつまんで草むらに放り投げたら「私の子を助けて来れてありがとう」と優しい風を送ってくれた。冬になってからは灰色の雪雲に姿を隠すことが多かった。それでも時々、真っ白な姿を見せては「どう。私。きれい」とはにかむような笑顔を見せたものだった。
その東山がタバコを買おうとした自分を引き止めた。東山の声を聞き、「ああ。俺は何をしようとしていたのか」と情けない思いがした。
それからまた数日して、雪寄せも終わり、「さあ。家に入るか」と思っていたら、今度は軽トラックを運転している男性がやはりタバコをくわえながら自分の目の前を通り過ぎた。タバコをくわえたその顔がいかにも至福そうで、「ああ。あんなふうにタバコを吸えたらいいナ」と再び強く思った。
タバコは2年前の03年8月1日をもって止めた。なのに未だにタバコへの愛着が残っている。これにはさすがに驚く。精神的に追い詰められたり、心に余裕を失ったり、原稿に詰まった時など、イライラすると体のどこかでタバコを要求する。雪寄せで体を使い、疲労感がたまった時も「ああ。タバコがあればな」と思う。しかも、ただ単にタバコを吸うのではなく、イメージでは車のハンドルを握りながらのくわえタバコでなければいけないのだ。タバコの煙を吐きながら、車を走らせる解放感にひたりたいと思うのである。目の前でタバコを吸う人がいても何でもないのに、なぜか車の中でくわえタバコをしている姿を見ると無性にその真似をしたくなる。
タバコを吸っていたころはむしろ、車を運転しながらのタバコは避けていた。くわえタバコをしたお陰で、ズボンを焼き焦がし、何着か駄目にしたことがあるからだ。だから車内では吸わないようにしていた。
タバコを止めた今、そのくわえタバコに憧れるのはそうした反動からかもしれない。それにしてもタバコを「吸いたい」というイメージは凄いものである。確かにタバコとは30年以上も付き合ってきた。それを止めた、と言ってもまだ2年にもならない。体と脳の隅っこにはまだまだタバコの残滓がしつこくこびりつき、忘れられなくしているのであろう。タバコとはやっかいなものだ。東山はそうしたつぶやきを聞いてクスクスと笑った。そして「大丈夫よ。私がいつも見守っているから」とささやいた。冬の東山の声が優しかった。