こちら編集室「春の午後」(4月8日)

  クオー、クオーとかすれたような声をあげ、白鳥が二羽、北の空に向かって飛んでいくのを見た。北へ帰る白鳥の群れはこの季節になるとよく見かけるが、たった二羽の旅立ちは寂し過ぎるなと、しばしその行方を追った。灰色の空に向かって飛ぶ白鳥の二羽の姿がとても美しかった。縦列になって飛んでいた。夫婦なのだろうか。これから山を越え、海を越え、長い北への旅。それにしては二羽だけでは寂しいような気がした。どこかで大きな群れと合流するかもしれない。そう願った。

  小林旭の歌に「北帰行」というのがある。高校生のころだった。この歌を初めて耳にした時、「なんてカッコいい歌なんだろう」と胸が痛くなるほど感動し、その歌の主人公に憧れた。「窓は  夜露に濡れて  都  すでに遠のく  北へ帰る  旅人ひとり  涙  流れてやまず(宇田博作詞・作曲)」という歌詞とメロディに夢中になった。

  「北へ帰る」という言葉に悲しみとロマンを感じ、「さらば祖国、愛しき人よ」と絶唱するアキラ節に惚れ、「人生とは、生きるとは寂しいものなのだ」と高校生らしくない哲学にひたった。

  まだ浅い春だった。自転車で高校から帰り、自宅裏に回って春の陽射しを受け、革靴に墨を塗り、ピカピカに磨きながら川一つ隔てた角間川町にあった映画館のスピーカーから流れてくる小林旭の歌に耳を傾けた。

  「夢は  むなしく消えて  今日も  闇をさすろう  遠き想い  はかなき希望(のぞみ)恩愛  我を去りぬ」

    歌詞の美しさと格調の高さ、メロディーの寂しさと悲しみが胸を打った。「アキラっていいなー」と思った。革靴をピカピカに磨くと、少しでも俳優・小林アキラに近づけるような気がして一生懸命に磨いた。映画ではギターを抱えて旅をするスターだった。流れ者を演じた。ギターを弾きながら「赤い夕陽よ  燃えおちて  海を流れて  どこへゆく  ギターかかえて  あてもなく  夜にまぎれて  消えてゆく  俺と似てるよ  赤い夕陽」と歌った。(ギターを持った渡り鳥=西沢爽作詞・狛林正一作曲)

  高校生だったから、生意気もしたかった。映画の主人公のようにやくざな連中と闘い、殴り合い、恋をし、歌ってみたいと憧れた。「夜にまぎれて消えていく」というキザで、やくざな渡り鳥のような生き方にも憧れた。

  革靴をピカピカに磨いて、自転車にまたがって颯爽と風を切って走ると銀幕の中のスターになれたような気がした。映画の中で小林アキラがカッコ良く乗りこなした馬が自分には自転車だった。しかし、田舎住まいの悲しさ。学校を終え、帰宅してから家をサァーと出てもあるのは川と堤防だけ。浅い春の午後は誰一人とも出会いはなかった。それでも良かった。

  大曲の街中に通じる雄物川の長い堤防を自転車を踏みながら走って、まだ青草も生えてない堤防の斜面に腰を下ろすと白い雲がいろんな姿、形になって夢を運んできた。北へ帰る旅人となり、ギターを持った渡り鳥にもなって、雲は夢を語ってくれた。見えない恋への憧れに心燃やし、恋をするということは切ないものだとも語ってくれた。

  羽根雲、筋雲、綿雲、モクモクと積み重なったような積み雲。「オーイ。雲よ。どこへ行く」と声を掛けたくなるようなはぐれ雲。様々な姿、形をして雲は流れ、旅をした。それを見上げ、見送っているのが好きだった。

  あのころ、何と言う詩だったか、国語の教科書で出会った山の詩の雄大さにとても感動したことがある。確かアルプスの山々を語ったもので、山の名前が登場し、「○○○山は500年の眠りから目覚め語り出した。○○○山は700年の眠りから語り出した。そして再び1000年の眠りに入った」。余り内容のある詩ではなかったが、500年とか700年とか、気の遠くなるような眠りこそ、雄大な自然を象徴する言葉だなと思ったものだ。

  その詩の名前も内容も忘れたのに新聞記者になってとても後悔したのが、高校時代に使った教科書を捨ててしまったことだ。せめて国語と古典、それに音楽と美術の教科書だけは残しておくべきだったと今も残念に思う。高校時代の教科書はその後の人生を生きるための智の集積だったからだ。

  カール・ブッセの詩「山のあなた」と出会ったのも高校でだった。

  山のあなたの空遠く

  「幸い」住むと人のいふ

  ああ、われひとと尋(と)めゆきて

  涙さしぐみ、かへりきぬ

  山のあなたになほ遠く

  「幸い」住むと人のいふ

  自分にとってカール・ブッセに登場する「山」は今も東山であり、東山が大好きだ。高校生のころ、横手川の堤防や雄物川の堤防の斜面に腰を下ろし、眺めた春の東山。まだ残雪があって山は白く輝いていたが、春の東山はとても美しく、貴賓に富み、優しい顔をしていた。今もそうだが、横臥したその姿は年上の女の人のような優しさ、ふくよかさがある。

  その東山に行ったら「きっと救われる」と想った。寂しい時や悲しい時、空ろな時、東山まで行ったら、東山の麓まで行ったら「きっと山は救ってくれる」と想っている。晴れた日の午後、東山の麓をユックリと走った。東山は「また来てくれたのネ」と笑顔で迎えてくれた。白鳥の群れが飛んでいくのとも出会った。春の午後。東山の麓を走っていると遠い昔となった高校時代に戻ったような気分になれた。