こちら編集室「雨に咲いた都忘れ」(6月17日)

  小さなわが家の庭だが、ナナカマドやしだれ桜、イチョウ、花ももなどの樹木の下で忘れな草や都忘れ、バラ、インク花などが咲いている。いずれも樹木の下で咲いているせいか、日陰となってその姿はどこか寂しげだ。一方の居間に面した庭にはシャクヤクが鮮やかなピンク色となって咲き出した。こちらはモミジの下だが、晴れた日は朝から夕方までタップリと太陽の光を浴び、明るく微笑んでいる。

  「忘れな草」は日陰になっても青空のカケラのような鮮やかなブルーだが、「都忘れ」の紫は雨に似合う寂しげな色だ。

  大館市出身の歌手・因幡晃に「都忘れ」と言う歌がある。確か20数年前、因幡がデビューした当時の歌だった。この人は自ら作詞・作曲し、歌うのだが、その歌にはいつも恋に破れた女の人の悲しみがあった。「分かって下さい」「アパートの鍵」「泣かせて今夜は」など、別れの歌にひそむ悲しみに心惹かれ、30代のころ因幡の歌を良く、繰り返し聴いたものだった。

  この道  通るのも
  二度目になったのね
  今度は  幸せになれると思ったのに
  都忘れの花が咲く
  悲しい女が通る道を

  生きてゆけるわ  一人だけでも
  もう終わったの浅い夢は(「都忘れ」から)

  数オクターブ声の高い、この人の歌には悲哀に満ちた愛のドラマがあって、聴いていると心の中に涙雨が降るような思いだった。その「都忘れ」の花が咲いたせいか、ナナカマドなどの樹木の下に立つと20数年の時の流れの〃旅路〃にひたってしまう。都忘れの紫には片思いの切なさがこもっている。

  車の後ろの座席には滅多に手にすることはないが「聖書」が置かれている。キリスト教信者でもないだけに、その分厚い聖書を手にしても意味が良く分からないまま目を通すだけだ。ただ旧約聖書には天地創造の大きなドラマがあって、神の言葉を目で追いながら壮大なスケールで天と地の創造、アダムとエバ(イブ)、ノアの箱舟やモーセの物語にひたることがある。

  聖書を読みながら思うのだが、「はじめに神は天と地とを創造された」の旧約聖書、そして「心の貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らはなぐさめらるであろう」と教えたイエス・キリストの福音の言葉に素直に耳を傾け、信じきれる人たちを心底、うらやましいと思う。

  ともあれなぜ、旧約聖書があって、新約聖書があるのかは考えたこともなかった。その旧約・新約合わせて一つの「聖書」であるということを知ったのは最近のことだった。

  三浦綾子さんが書いた「光と愛を求めて『旧約聖書』」を読んで、旧約とは神が人間に対してなされた旧い契約であり、新約とは新しい契約のことをいい、旧約を読まないと新約聖書の正しい理解はできないと教えられたからだ。

  その三浦さんもキリスト教信者になる前は「神なんか、いるものか」「クリスチャンは大嫌いだ」「死んでもクリスチャンになるものか」とさんざん悪態をついていたというからいくらか安心した。とはいえ、こちらはまだイエス・キリストさまは別にして、天と地を創造し、アダムとエバを楽園から追い出した神さまの存在は素直に信じきれず、物語としか思えないのだ。

  だが「物語」としてもそのスケールの壮大さには惹かれる。「はじめに神は天と地とを創造した。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」と書かれている。

  さらに神は「光あれ」と命じた。すると光があって、神はその光を見て、良しとされたと記す。神はその光を「昼」と名づけ、やみを「夜」と名づけた。

  こうして神は6日間かけて天と地と海を造り、陸地には青草と種をもつ草と実を結ぶ木をはえさせた。さらに二つの大きな光も造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、星を造った。さらに神は「海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造した」。そして6日目。神は「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」と陸地に生きるものを造った。

  そして神は言われた。「われわれのかたちに、われわれのかたどって人を造り、これに海の魚(うお)と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。こうして天と地と、その万象とが完成し、神は第7日に休まれた。

  まさに神はこの地球と宇宙そのものを創造されたのである。この旧約聖書は誰が書いたのだろうか。不登校や引きこもりの人たちのためにボランティア活動をされている日本キリスト教団大曲教会の横井伸夫牧師に尋ねたら「さまざまな人が書いたものです」とのことだった。「だから矛盾もあるのです」ともおっしゃった。それは神が人をつくるシーンで現れる。その一つは「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれのかたどって人をつくり」であり、一方では「土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」とある。第1章と第2章で人の造り方が違ってくる。

結局、旧約聖書は神の声を聴いた多くの人々がそれぞれの受け止め方で記憶を書き留め、聖書としてまとめたのかもしれない。

  いずれにしてもイエス・キリストさまもその旧約聖書を手に読まれていることは新約聖書の中の「ルカによる福音書」に登場するから、イエスが誕生するずーっと前に天地を創造した神はやはり存在したのだとしか思えない。

  だからどんな神秘さより、すべてを科学的に観て、偶然を否定し、科学の目で考察しなければならないアメリカの宇宙飛行士がアポロ計画に乗って初めて宇宙を見た時、神の大いなる存在を肌で感じ、地球へ帰還後は敬虔な宗教家となってその道に仕えたという話を何かの本で読んだことがある。旧約でも新約でも神の言葉を素直に受け入れ、神の教えを守り、信じて生きれる人を心からうらやましいと思う。

  旧約聖書の物語はアダムとエバを登場させ、そのアダムが蛇の誘惑を受けた妻の言葉を聞いて、神から食べてはならないと命じられた木の実を取って食べたことから、神命に背いた人類最初の罪人となる。そして人は皆アダムの子孫として生れながらに原罪を負うものとなったと聖書では教えている(原罪説)。人は神が禁じた善悪を知る木の実を食べたことで、善悪を知り、生きるために苦しむことになる。聖書の魅力に惹かれながら、いつも罪なことをしている自分って何だろうと思う。雨に咲いた「都忘れ」に悲しみの女の姿を想像し、悲しみに染まった目でその姿を追っている。