朝の散歩は続いている。午前5時の目覚めと同時に小犬のパピーを抱き上げ、横手川の橋を渡って東山へと向かう。東山は朝靄(もや)の向こうに隠れている日もあれば、青いクッキリとした姿で迎えてくれる日もある。東山は自分にとって優しさであり、癒しである。東山は5月の田植えが終わってから、ずーっと田んぼを見守り、息を吹き掛け、苗の成長を促してきた。弱々しかった苗は東山からの息吹を受け、6月に入ってからスクスクと伸び、たくましい緑の青年に達した。
朝の散歩。一緒に歩く妻との会話はもう脳を刺激するほどのものはなく、ただ隣に居るんだという自然な存在だけとなっている。だが、気にもならず、苦にもならず、ただ隣に居るんだというだけで安心する。夫婦とはそうしたものかもしれない。
「面倒みがいい」という言葉がある。妻の場合がその部類に入るだろう。日曜日朝にウォーキングの取材があった。その日の朝も散歩したのだが、早朝は結構、肌寒かった。このため、二人ともトレーニングウエアを重ね着して歩いた。自分たちは寒がりかもしれない。他にも早朝の散歩を楽しんでいる人たちがいるのだが、その人たちのほとんどは薄い夏シャツ一枚か、中には半袖の人さえいた。なのにこちらは重ね着だった。
「あの人たちは暑がりなんだろう。だからこの寒いのに半袖で歩けるんだ」。妻にそう言ったら「違うのよ。私も寒がりだけど、あなたは私以上に寒がりなの。あなたは雪国生まれでなく、南国生まれみたい」とあきれたように笑う。
とにかく半袖姿で散歩する人たちがいる中で、小犬を連れた自分たちはトレーニングウエアを重ね着しての散歩だった。それだけにどこか自分たちだけが夏という季節から取り残されたような感じさえした。
思ったことをそのままズバズバと口にするため、やや苦手な人がいる。そういう日に限ってその人と出会う。案の定その人は自分たちの姿を見て、「ええ!。オイオイ。そんな重ね着して暑くないのか」と耳に痛いひと声をかけた。その人も半袖なのだ。「いやもう自分は寒がりなものですから」とあいまいな笑顔ですれ違った。
とにかく散歩を終えてから、午前8時からのウォーキングの取材へと出かけることにした。家を出ようとした矢先に妻が「あなた。川は風がまだ寒いからこれを持っていかないと」と先ほどまで着ていたトレーニングウエアを手に車庫まで追ってきた。もう朝の太陽はグングン昇って、真夏のような強い陽射しとなっている。それでも妻は「川風は寒いから」と心配して、上着を持たせようとする。これが夫婦の妙かもしれない。その思いやりが嬉しくて、「分かった。ありがとう」と気持ちよくトレーニングウエアを受け取った。しかし、ウエアはやはり必要ではなかった。ウォーキングがスタートするころはもう汗ばむような暑さになっていた。
だが、取材を終えて車に戻って思った。シートには妻の心の温もりが乗っていると。それが家を出る時に「これを持っていかないと」と手渡されたトレーニングウエアだった。きれいに折り畳まれたウエアに、日曜日も土曜日も取材に出かけなければならない自分を気持ちよく送り出そうとする妻の配慮がこもっていると思った。
この日は帰宅してそのままウォーキングの原稿を仕上げ、風鈴を窓に吊り下げ、エアコンのフィルターを掃除した。朝の散歩時は肌寒さに震えたが、午前10時過ぎの陽射しはもう真夏の強さだ。夏を迎える準備を整えようと思った。6月も後、残す日は少ない。雪で呻吟したあの正月からもう半年が過ぎた。月日の流れに加速がかかっているような気がする。7月、8月。短い夏だが、季節を楽しみたいと思う。
※こちら編集室について=いつも苦労して書いている。文才もなく、センスのなさも自覚している。ただ一生懸命、向かっているだけだ。内容はなくても、センテンス全体を美しくまとめたいとは思っている。身辺雑感を通じて、読んでくれる方にホッとしたものが届けばいいと思って書いている。詰まらないと思った時はどうぞ、ソッと見守っておいてほしい。