こちら編集室「県南のドライブ」(8月5日)

  苗が苗ではなく、稲穂へと成長し出した。緑色の苗から穂が芽吹いたのである。淡い緑の穂がスクッと苗の中から芽生えている。農家の人に聞いたら今の時期は「走り穂」と呼び、お盆過ぎには「出穂期」となって本格的に実り出し、稲穂が頭を下げ出すという。早朝の散歩時に、田んぼを観て「アッ」と叫んでしまった。「なによ。どうしたの!」と妻も驚いたように声を挙げた。「苗から穂が出たんだ」と説明したら、「何だ。そんなことか。大声出すからビックリしちゃった」と素っ気ない。だが、毎日、毎朝目にしている緑色の田んぼがわずかでも変化したことは驚きだった。

  夕方、近くの川港親水公園を散歩していて「ああ。季節が変わったんだな」と思ったのは、ヒグラシが鳴き出したことからだった。森の中からカナカナカナ……としみ入るような鳴き声があちこちから聞こえてきて「ああ。夏が来たんだな」と思った。しかも、夏と言う季節がヒグラシの鳴き声と同時に〃すとん〃と落ちたような気がした。8月に入るとお墓参り、盆踊り、子どものころ遊んだ神社のお祭り、「大曲の花火」と目まぐるしく行事が続き、季節は秋へ、そして冬へと急ぐ。そのせいか、季節の移ろいに寂しさとはかなさを強く感じるのもヒグラシが鳴き始める8月だ。

  日曜日、県南を少し探訪してみようと妻を誘って湯沢市まで遠出した。お昼は稲庭うどんで有名な「佐藤養助商店本店」で過ごした。これまでも稲庭から皆瀬を通って小安峡へドライブした時、何度か寄った店だが、ここ暫くは遠ざかっていた。

  朝の散歩の時、「今日は稲庭うどんを食べてみたい。行ってみないか」と誘い、「それから羽後町に走って鈴木家へ行ってみたいんだ」と日曜日の行動計画を話した。羽後町の鈴木家は先祖が、源義経の郎党・鈴木三郎重家で、言い伝えでは文治5年(1189年)に奥州平泉から最上を越えて、現在地に落ちのび、土着し帰農したのだという。

  江戸時代には肝煎役(庄屋)を務め、苗字帯刀を許された地主だった。茅葺きの本屋だけでも300年以上も昔の建物で、マヤ(馬屋)部分は享保18年(1733年)に増築されたという記録がある。1973年に国の重要文化財に指定され、81年4月から1年半の月日をかけて大修理を施し、往年の姿に復元された。

  日曜日。自宅を出たのは午前11時過ぎだった。稲庭までなら車でも1時間足らずの距離だ。横手市から自動車道に乗って湯沢市で下り、そこから東に向かった。いつも思うのだが、大仙市大曲を基点に北の秋田市方面へ向かう時は変に緊張し、南の横手市や湯沢市に向かう時は風景にも親しみが沸いて、どこか懐かしいものがこみ上げてくる。山でもそうだ。横手市から北上に向かって観る山も、湯沢市から小安峡へ向かって観る山もいわゆる東山の延長線にあるせいか、優しく迎えられているような気がする。ハンドルを握っていても風景にホッとするのである。

  道路沿いに広がる集落も緑色の田んぼも、自分の住んでいる地域とそれほど変わらず、いや山がすぐそばという点だけは違うが、みんな馴染みやすいし、親しみが持てる。走っていて「県南って、山が優しくていいナ」と嬉しくなる。隣に座った妻も「稲庭うどん」を求めて出かけるのは久しぶりとあってか、「ねえ。あの集落を越えるとあの店も直ぐでなかったかな……」と待ち遠しそうにつぶやく。こちらも佐藤養助商店の本店である食堂の位置はぼんやりとした程度の記憶しかなく、「多分な……」とあいまいな返事しかできない。「とにかくもう直ぐだ」と集落、街並みをやり過ごしては同じ言葉を繰り返した。

  静かでシットリと落ち着いたささやかな街並みに入った。「ああ。ここだ」。やっと記憶がよみがえり、目指す佐藤養助商店が目の前に飛び込んできた。警備員がいて、駐車場の案内をしていた。店の前の駐車場は拡大されて10数台分のスペースがあったが、最近ではお昼になると足りなくて別の場所にも駐車場を設けているとか。幸いにもこちらは店の前の駐車スペースが1台分空いたとかで警備の人が手招きして案内してくれた。駐車している車のナンバーを見ると岩手や宮城、福島などもあった。もう全国並みの人気となっているようだ。

  店内は入りきれないほどのお客であふれ、5〜6人が外で順番待ちをしていた。名前と人数を書いておくと案内してくれるという。仕方ないから外で待つことにした。嬉しいのは日陰に長椅子が置かれてあって、冷たい麦茶が自由に飲めるようにしていた。こう言うサービスはありがたい。それに昔と違って、店も改築され、稲庭うどん手造り体験工房もあって見学ができた。楽しみながら店に入る「順番待ち」をした。

  「伊藤さま」の呼び声を受けて店内に入った。懐かしいと思った。店の中は昔とそれほど変わってなかった。エアコンの効いた店内が気持ちよかった。窓側に空席があった。そこからの眺めは畑と山だけだが、その素朴な風景が懐かしかった。妻は天ぷらうどんを取り、こちらは冷たいのと温かいのを交互に食べれる「味比べ」を注文し、夏の昼時を楽しんだ。

  昼食の後、湯沢市まで戻り、そこから西に向かった。羽後町に入ると案内板があって、鈴木家までは9キロとあった。県南をドライブしていて良く思うのだが、名所旧跡への案内板があっても、途中からはそれを見かけることがなく、交差点でどっちに曲がったらいいのかと迷うことが良くある。今回もそんな不安を持ってのドライブだった。

  だが鈴木家の場合は違った。曲がり角に入ると「鈴木家は左折」の矢印があり、一度も迷うことなく着けた。そして感動した。本屋は300年以上も経っているというだけに茅葺きのどっしりとした堂々とした構えだった。

  マヤから入って「ごめんください」と何度か叫んだ。返事が来る前に妻が「キャーッ」と悲鳴を上げた。何事かと思ったら、薄暗いマヤの中からもそもそと動く白いものがあった。クマのような大きさだった。気付いたらゴールドリトリバーだった。「アッ。何だ。あなただったの。ふー。ビックリした」と妻は座り込んで、「コンニチワ」と犬に話しかけた。

  奥から「いらっしゃい」とアンダーシャツ姿のご主人が顔を出した。そして「さあ。上がって。上がって下さい」と囲炉裏のある部屋に案内した。真夏なのに囲炉裏の中では薪が燃えていた。「年から年中、こうして火を焚いておかないと茅葺きの屋根が持たないんです」と当主は説明し、見学料の一人500円を払うと源義経の郎党としての「鈴木家」の歴史を語り、国指定重要文化財になるまでの経緯を話し出した。夏でも囲炉裏の火を絶やさないのは煙によって茅をいぶすことで乾燥させ、虫をわかさないようにするためだという。

  鈴木さんは「全国に約300件の国指定民家があるが、国指定の重文になっても人が住んでいるのはわが家が初めてのことです」と自慢そうに話した。国がお金をかけて修理した場合、生活の場は国の保障で別に設けられるが、鈴木さんはあくまで現在の家に住むことにこだわった。「冬はまるで外に寝ているような寒さだし、生活も不便だが、自分の家に住むことこそ文化なのです」と話した。

  その朴訥とした語り口は野武士のような重みがあった。歴史が鈴木さんを支え、先祖から数えて45代目という血の誇りが、鈴木さんの彫りの深い顔に刻まれていた。でも話を聞いていてとても気さくな人柄だと思った。

  その鈴木さんは話し終えるとユックリと立ち上がって「さあ。どうぞ」と隣の仏壇や神棚のあるチャノマ、奥座敷のヒロマ、床の間のあるコザ、そして今は物置となっている通称「バケモノザシキ」を案内した。どの部屋も天井はなく、茅の屋根がむき出しだった。チャノマもヒロマも縁側に面した17畳半の広さで、コザは12畳半だった。バケモノザシキという小部屋は昔、落ち武者を匿った部屋だという。

  単純な構造だが、雨戸を開けると涼しい風がスーッと走り、爽やかそのものだった。昔の家は客間を大事にし、家族が生活する場は粗末な造りが多い。鈴木家もそんな特徴を備えていた。「写真を撮っていいですか」というと「どうぞ。どうぞ」と気さくに勧めた。その温かい人柄にまた機会があったらもう一度、お会いしたい。そう思いながら鈴木家を後にした。県南の良さを久しぶりに堪能した。秋になったらまた訪ねてみたい。