東山は今朝も雲の中に隠れていた。9月に入って雨や曇りの日が多くなった。台風も発生し、雨雲を連れてきた。雲の中からかいま見る東山は水彩画のように優しく、山肌は淡いブルーとなってたたずむ。「あの山に行けたら・・・」。木の葉が散る秋を迎えたせいか、時々、感傷的になってしまう。
それにしても夕方、小犬のパピーを連れて横手川の堤防から川港親水公園を歩くと草むらから秋の虫たちの合唱が美しい。リィー、リィー、リィーッ。コロコロコロと澄みきった鳴き声が草むらから響く。時にはキチキチキチ、ギーチョン、ギーチョンとも奏でる。まさに虫たちの野外コンサートだ。まだセミの鳴き声も聞こえるが、その弱々しい響きは哀れであり、聞くのが辛い。
夕方、小犬のパピーを連れて歩くのはせいぜい20分ほどだが、この時間帯が一番、幸せを感じる。散歩を済ませ、風呂に入って食卓に座るとビール、そしてお酒で夜を楽しめるからだ。妻は「私はあなたの料理番じゃないのよ。たまにはあなたも料理を作ってみせて」と不平をもらすこともあるが、結構、楽しそうに台所に立ってでき上がった料理を運んでくる。
自分の好きな食べ物はいたって単純だ。豆腐であり、キャベツの味噌汁であり、トマトである。ゆでたピーマンを細切りにして醤油をかけて食べるのも好きだ。そして豚肉のしょうが焼きとか、ソーセージメーカーが出しているミニステーキの油炒めがあればそれでいい。たまには焼き魚も歓迎だ。
妻と二人きりの食事に変化を与えてくれるのは小犬のパピーだ。この子は食事時、自分だけテーブルの下にいるのは寂しいらしく、二人がテーブルに座ると「クー、クー」と鼻声で鳴く。妻が「パピーもここに来たいのか」と呼びかけ、腰をずらして小さな隙間を作ると下からピョンと飛び上がってテーブルと同じ高さの目線に座る。その姿を観ているとやはり二人にとって大事な〃家族〃だと思う。
その点、柴犬のアキは大人だった。自分の食事を終えると夜は長椅子で寛ぎ、眠っていた。たまにお客さんが来るとおやつを貰えるのではないかとソワソワし、お客さんの側にお坐りしてお手を差し出しては催促したが、パピーのように「ワンワン。キャンキャン」と騒ぐことはなかった。
夕方、秋の虫たちの恋を求めての合唱を聞いていると亡くなったアキを思い出す。鉛色の空を見上げ、遠く霞んだ東山に目を向ける。「あの山へ行けたら」と少し寂しい思いもするが、雨を含んだ鉛色の空の向こうのさらに遥か向こうには真っ白な雲があって、その上をアキはもしかして思いっきり走っているのではないかと想像する。
もう何年、この地上で命を燃やせるのかは神さましか分からないことだが、空を見上げて「アキ。待っていてくれよ」と呼びかけた。
それにしても秋になった。病葉が散り、風に舞っている。秋を謳った詩では岸田衿子の「忘れた秋」が好きだ。
待つことを秋の道でおぼえたとき
風は一つ一つの草の実に吹き
野は1日1日の夕焼を蔵った
私はそうして秋を数えていた
昔は何を語り何を聞いたのか
昔は何を待ち何をのぞんだのか
川は知っているらしかった
そうして昔の川は私の傍を流れた
昔いくつかの物語は木の下で眠り
昔いくつかの恋は木の下で別れたと
嘘をつかない楡の木は云った
けれども忘れっぽい蝶は
木の向こうに足音がすることや
木の中にかくれているひとを教えてくれた
散歩道になっている公園には楡の木がある。アキニレの木だ。真夏にその下に立つと葉っぱの群れが涼しい風を送ってきた。まだ青い葉がいっぱいだが、病気になった葉は枝に別れを告げ、散り始めている。「昔いくつかの恋は木の下で別れたと嘘をつかない楡の木は云った」と岸田衿子は書いている。
楡の木の下で別れた恋。何て素敵な言葉だろう。小犬のパピーと共にアキニレの下にたたずみ、木を見上げた。もう遠い昔になったが、恋に近い感情を抱いて通ったお店のママさんを思い出す。年上だったがとても素敵な人だった。その人への恋は母に求める優しさだったような気がする。今もたまに出会うと大きな黒い瞳で「伊藤さんは私をお母さんだと思いたかったのでしょう」と笑う。その人は別れても好きな人だ。