こちら編集室「東山へ」(9月23日)

  ボーッとしたくなって東山の麓を走った。青空に白い雲が浮かび、トンボが天高く舞っていた。東山は近づくと近づくほど緑を濃くし、山は優しく迎えた。東山は標高1059メートルの「真昼岳」を南に据え、北に向かって標高832メートルの「黒沢大台山」、1023メートルの「風鞍」、1110メートルの「大甲」、1218メートルの「薬師岳」、1177メートルの「白岩岳」などが連なっている。

  この山には一度も登ったことがない。ただ幼いころから遠くに眺めているだけだった。でも整然とした山の連なりは子供のころから好きだった。そして寂しかったり、悲しかったりした時は「あの山へ行けたら」と憧れた。

  晴れた日の21日午後、ボーッとしたくなって東山に向かった。山に近づいたら「あなたが私を好きなように、私もあなたを好きなのよ」と優しく迎えてくれた。ススキが銀色の穂を輝かせていた。白樺の木が西日を受けてまぶしかった。スギの木は緑を一層濃くして、たくましく枝を伸ばしていた。

  東山の麓の道を走っていると、まるで母の胎内に飛び込んだかのような安心感に包まれた。麓の道を南から北へと走り、北からまた南へと戻った。走っているうちに、なぜか涙がこぼれ落ちた。山の中にとけ込めた嬉し涙だった。

  衆院選に続く大仙市議選の取材で体力も気力もボロボロに疲れていた。しかも、市議選開票日の18日は体育館での開票作業が大幅に遅れ、終わったのは19日午前0時15分となっていた。30人の定数に現職、新人合わせて66人もが立候補したから開票作業も大変だったと思う。こちらは開票結果が出ると同時にその名簿をもらって記者室に駆け込み、前もって書いておいた予定原稿の一部を手直しし、数字など空白部分を埋め、記事を仕上げた。そして誰が当選し、誰が落選したかの速報を流すため、立候補者すべての名前と得票数の一覧表も作成した。

  作業が終わったのは午前2時近くで、それから帰宅してビール1本と日本酒1本を飲んで眠りに就いた。午前3時を過ぎていた。そして翌日は妻の運転で出社し、再び市議選の記事の総仕上げに取りかかった。その上、美郷町の町議選のまとめもあった。

  妻も手伝ってくれたが、記事を打つ指は動いても頭の中は疲れで呆然としていた。疲労感が極まっていた。しかし、時間は待ってくれない。会社ではこちらの原稿が仕上がるのを待っていることだろう。とにかく市議選、町議選の結果をまとめ、印刷に回せるようにしたいと急いだ。

  途中で当選者の一人の顔写真が違うと妻に指摘され、その入れ換えもあった。フロッピーに仕上がった原稿を収録し、さらに写真の入れ換えもした上で昼ごろまでには会社にすべての原稿を届けた。

  そしてケンニチ用にと当選した30人分の顔写真を掲載するため不慣れな表も作成、その作業を終えたのはやっと夕方だった。帰宅したその晩は疲労も限界に達していたのか、少しの酒で酔いつぶれ、眠ってしまった。それでもやり遂げたという達成感があっていくぶん救われた。

  翌朝は午前7時50分からの田沢湖、角館、西木が合併し、新市「仙北市」の誕生の取材があった。その取材で再び午前6時過ぎには家を出た。新市が生まれればその市長選もある。新市誕生の取材と同時に田沢湖から西木、角館と走り、市長選に立候補を表明している3人の後援会事務所を回った。新聞記者となってこれほど多忙な日々の経験はかつて無かった。しかし、取材するネタがある分、体は動く。

  とにかく8月の衆院解散から無我夢中で走ってきた。その間には全国花火競技大会もあり、その特集号の記事のまとめもあった。土日の休日もお盆休みもほとんどなかった。衆院選の取材時には気力も体力も限界に達し、もう無理ではないかと何度も弱気の虫が走った。

  21日午後、ボーッとしたくなって東山に向かった。東山の麓を走った。東山の緑も、またその麓に広がる集落も、そして黄金色に輝く田んぼも、白銀のススキもすべてが素敵だった。車を走らせ唐突だが「高村光太郎と智恵子っていいな」と思った。光太郎の智恵子を愛するあの純粋さ、そして「智恵子抄」としてこの世に残した愛の詩集の言葉の美しさがいいなと思った。

  東山の麓を走り、精神を病んでいく妻を見守る高村光太郎のその時の気持ちってどんなだったろうと想像した。妻が妻でなくなる男の悲しさってどうなんだろうと思った。悲しいが光太郎の「山麓の二人」は大好きな詩だ。

  二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は

  険しく八月の頭上の空に目をみはり

  裾野とほく靡(なび)いて波うち

  芒ぼうぼうと人をうづめる

  半ば狂える妻は草を敷いて坐し

  わたしの手に重くもたれて

  泣きやまぬ童女のように慟哭する

  ──  わたしもうぢき駄目になる

  光太郎は書く。

  涙にぬれた手に山風が冷たく触る

  わたくしは黙って妻の姿に見入る

  意識の境から最後にふり返って

  わたくしに縋(すが)る

  この妻をとりもどすすべが今は世に無い

  わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し

  闃(げき)として二人をつつむ此の天地と一つになった

  愛の詩の悲しみは美しく、そして残酷だ。「この妻を取り戻す術が今は世に無い」と語った光太郎。慟哭したかったのは光太郎だったろう。東山の麓の道を走りながら、光太郎の詩集を思い出していた。光太郎の悲しみを思った。東山はこの日も優しく受け入れてくれた。