こちら編集室「アメリカ東海岸の旅(2)」(10月28日)
 
 
 ボストン美術館ではミレーやルノワールの絵なども無防備で展示されていた。多くの若者たちが絵の前で学んでいた。   アメリカ最古の公園では黒人女性が本を手に何やら説教していた。

  二つの旅行ケースが出てくるのを待った。それを受け取って到着ロビーに向かったら、岩間さんの姿があった。2度目のアメリカとは言え、言葉は通じず、右も左も分からない外国の空港で、親しい人の出迎えを受ける時ほどホッとし、感激するものはない。「いやー。伊藤さん。良く来てくれました」。岩間さんの歓迎の言葉が身に染みた。

  空港から外に出るとカリフォルニア独特の青空が広がっていた。抜けるような青、透明な光りが燦々(さんさん)とふり注ぎ、光りのシャワーを浴びているような感じだ。「岩間さん。これですよね。サンフランシスコの空。この青、この光りがそうなんですよね」と興奮した。妻も「本当にまぶしい。気持ちいいほどまぶしい」と子どものような笑顔を見せた。太陽が燦々と輝いていても、湿気がないため空気は乾燥し、気持ちがいい。

  迎えて下さった岩間さんの車のトランクに荷物を入れ、そのままサンフランシスコの街を走った。坂のある懐かしい街を走った。2度目だが、目に飛び込んで来る風景はとても新鮮だった。後ろの座席の妻も喜びでいっぱいなのか「またサンフランシスコを走っているのね。日本と違って看板がないから街がきれい」と声が弾んでいた。ケーブルカーとすれ違った。2年前はそのケーブルカーにも乗った。

  車は再びサンフランシスコ名物の「金門橋(ゴールデンゲートブリッジ)」に向かい、その橋のたもとで記念写真を撮った。そして橋を渡り、向かいの展望台でサンフランシスコ湾を眺めた。まさか同じ地に再び立てるとは思っていなかっただけに何とも言えぬ感動が沸いた。そうした中、妻は一生懸命写真を撮っている。「あれ。奥さんは?」と岩間さんの目が妻を探す。そう離れているわけではないが、妻は花を見つけてはそれをデジカメに収めていた。

  「今度の旅行ではアメリカのお花の写真をいっぱい撮ることにしたの。帰ったら、花の好きな友だちに見せたいから」とカメラを懸命に向けていた。その後ろ姿から旅の喜び、興奮が伝わって来るようで「アメリカに来て良かった」と思った。

  岩間さんは2度目のサンフランシスコの案内場所にと、有名なカリフォルニアワインの名所巡りを用意してくれた。車で1時間ほどだったが、ナパ地方にあるワイナリーの見学だった。広大な大地が広がる。果てし無き広い土地に牛たちの姿もあった。雲ひとつない青空が広がる。光りが注ぐ。

  片側4車線から5車線の広い自動車専用道路を車は快適に走る。日本車、アメリカ車、ドイツ車。まるで車のデパートのように多種多様な車が走る。時差ぼけが始まった。ほとんど眠っていないため、睡魔が急速に襲ってきた。助手席に座って何とか岩間さんと会話を交わそうとしたが、いつの間にか眠ってしまい、目覚めてはまた眠ってしまう繰り返しとなった。

  ワイン工場では見学コースがあって、数組のアメリカ人観光客と一緒にそのコースを歩いた。女性従業員の案内で、ブドウ畑やワイン工場を歩きながら英語の説明を聴いた。岩間さんが聞き取ってその内容を簡単に説明してくれた。サンフランシスコの郊外だけに空気さえもどこかノンビリしているのを感じた。風が爽やかだった。

  機内で出た朝食が、昼食にもなったのか、お昼になっても空腹を感じることがなく、夕方早めに空港近くのホテルへと案内してもらい休憩した。そしてその晩はサウサリートというヨットハーバーにあるレストランで早めの夕食を取った。海に面した大きな窓からサンフランシスコの夕景色を眺めながらの夕食だった。映画のシーンに出てくるような白いナプキンを腕に下げた男性が料理の注文を取りに来た。

  レストランに入っても、また誰が来ても英語を話せる岩間さんが側にいるから安心だった。テーブルにシーフード料理が運ばれてきた。こくがあって食べやすく、美味しい料理だった。ビールも格別にうまかった。ビールでのどを潤しながら「アメリカにまた来れたんだ」と幸せを味わった。

  翌朝、まだ星の輝く空を眺めながら、岩間さんの迎えで早めにホテルを出て空港へと向かった。車内でサンフランシスコの人口は78万人、それに対して議員は10人。サンノゼの人口98万人、議員はわずか8人。しかも議員報酬は年間600万から700万円ぐらいなどの話を聞く。「アメリカでは片手間の名誉職では議員はやってられない。全くのボランティア精神なんです」と岩間さん。住民にも市の行政への提案権があるといい、民主主義の原点を聞く思いをした。

  時計はこちらの現地時間に合わせた。その時計を見ると午前7時10分だった。その時間帯にサンフランシスコはやっと日の出を迎えた。そして午前8時15分、自分たちを乗せた機はボストンへと飛び立った。正午になった。窓から遥か下に五大湖が広がるのが見えた。まるで海のような広さだった。この正午の時間で時計を3時間を先に進めなければならないという。五大湖の上空で正午を迎えたのだが、現地時間は午後3時になっていることになる。日本に比べアメリカの面積は25倍という。アメリカの広さを感じた。ボストンの空港に着いたのは午後5時になっていた。

  空港近くのレンタカー会社に寄って車を借り、そのままホテルへと直行した。その晩はそのホテルから車で30分ほどの郊外にある中華街で中華料理を食べ、ホテルで早めに休んだ。夜のボストンを車で走る。それだけの体験でもとても興奮だった。ホテルに入るとバーで多くのアメリカ人観光客がくつろいでいた。岩間さんに頼んでスコッチウイスキーを水割りで一杯、注文してもらった。

  翌朝はホテルでバイキングの朝食だった。パンやフルーツ、それにジュースとミルクなどを運んで食べた。いつものようにそれほど食欲があるわけではないが、何を食べてもうまかった。妻も時差ぼけのせいか夜中の1時や2時ごろに目覚め、ベッドの上で何度も寝返りしていたが、数時間は熟睡したという。朝食前には化粧も済ませ、ホテル一階の食堂で、岩間さんとあいさつを交わしながら食事を取った。外国という雰囲気が興奮させるのか、いつもの顔とは違った知的関心を高め、子どものように目を輝かせていた。

  朝食後はボストン中心部まで車で行き、JTB社の車でのボストン1日観光を楽しませてもらった。日本人の女性が運転手兼観光案内としてボストンを回るのである。ボストンはそれこそアメリカの歴史発祥の地と言えるだろう。
  メイフラワー号。この小さな船でアメリカの歴史は始まった。 独立戦争の舞台となったレキシントンで。当時の衣裳で観光客を迎える。

  無知な自分にアメリカの歴史を語れる資格はないが、簡単に述べればアメリカはイギリス国の教会の迫害を受けた清教徒が新天地を求めて「メイフラワー号」という小さな船に乗って1620年、ボストン近くのプリマスという地に移住したのが始まりという。乗ってきたのはわずかに102人。その移住者はプリマスを開拓村として住みつき、アメリカの歴史のページを開いた。

  プリマスには次々とイギリスから開拓移民が移り住み、やがてはボストンに移住し、次第に都市として発展した。しかし、イギリスに支配されたままの植民地時代が長く続く。そして1773年12月16日、イギリスからの過酷な税に憤慨した若者たちが、インディアンに扮装して、ボストン港に停泊中のイギリス・東インド会社の船を襲撃、紅茶の船荷を海に投げ捨て、「独立戦争」へとつながる茶会事件が起きる。

  ボストン一日観光はワゴン車に乗っての案内だった。車はボストンマラソンの場所やマサチューセッツ工科大学、ハーバード大学、高級住宅街のビーコンヒルなどを案内した。ハーバード大学ではその構内にも入り、大勢の学生と観光客が行き交う開放的な雰囲気を楽しんだ。「世界の最高学府」とも呼ばれるハーバード大学。

  せめてその〃袖〃にでも触れていたいと大学前の生協で、自宅へのお土産として「HARVARD」の文字の入ったTシャツを着たクマの縫いぐるみを買い求めた。同時に妻は実家の子どもたちにお土産にしたいと記念のTシャツを何着か買った。大学から高級住宅街のビーコンヒルにも案内された。赤いレンガ造りの住宅は坂道に建ち、どこかヨーロッパの古い街に似ていた。

  案内の女の人からは「この住宅街の家賃は一カ月に30万円前後もし、弁護士や医師、大学教授らプロフェッショナルしか住めない」などの説明があった。坂道の狭い道路を岩間さん、そして妻と歩きながら、お気に入りの場所を見つけては記念写真を撮ってもらった。小さな犬を連れた現地の婦人の姿があった。赤レンガの古い建物とマッチしていた。高級住宅街。映画の世界のような〃遠い世界〃のことだと思った。

  車はボストン美術館にと向かった。案内の人によるとこの美術館ではカメラのフラッシュは厳禁だが、写真撮影は「オーケー」という。それだけでも驚いたが、中に入って涙があふれ出るほど感激した。モネの「睡蓮」や「日本衣裳の女」、さらにミレーやルノワール、ゴーギャン、ゴッホなどの絵がさりげなく飾られ、柵やロープもなく自由に観賞させるというオープンさが驚きだった。

  岩間さんによるとアメリカは〃信頼の国〃であり、美術観賞をする人は純粋にその作品の観賞を楽しむもので、絵にイタズラを加えるような不心得者は居るはずがないとの前提で運営しているという。教科書や図書館の絵画の本でしか観たことのない著名な絵が目の前にある。それだけでも感激だった。そしてこの国の懐の深さを感じた。

  JTBによる一日観光の後は岩間さんの案内で赤レンガの建物からなる商店街を歩いたり、ボストンコモンなどアメリカ最古の公園や独立戦争の中心となった勇士たちが眠るグラナリー墓地へと足を運んだ。商店街は「ニューバリー・ストリート」と言い、ヤング向けのブティックやバーバリーなど高級ブランド店もあった。岩間さんによると東京の「原宿参道」と思っていいという。

  多くの行き交う人で賑わっていたが、ウインドー装飾の美的センスには感心するばかりだった。街行く人たちにいかにして商品に関心を持ってもらうか。商店街の経営者はそれぞれの個性とアイディアでウインドーを華麗に飾り、主張していた。そのウインドーの美しさを眺めながら歩くだけで楽しくなるのがそのショッピング街だった。

  「この公園を通って向こうに行くと独立戦争で戦った人たちの古い墓地もありますが、行ってみますか」。岩間さんは時々、振り返っては妻に聞く。「行ってみたい」。もうかなり歩いて足は棒のように疲れていたが、妻はせっかく来たアメリカであり、「観たい。体験したい」で燃えていた。そのため毎朝、散歩で鍛えた足だという。公園はボストンコモンであり、墓地はグラナリー墓地である。

  公園を歩くとリスたちの姿があちこちで見られた。人を恐れることもなく、自由に公園を飛び回り、可愛い姿を見せた。人と動物が自然に共生しているのがうらやましいと思った。整備された公園はゴミも見当たらず、清潔感があった。広場で黒人の女性が聖書だろうか。分厚い本を手になにやら演説をしていた。映画「風と共に去りぬ」の主人公=スカーレット・オハラの世話役となった黒人女性が思い出され、「やはりアメリカを歩いているんだ」と不思議な感慨が沸いた。

  グラナリー墓地は静かなたたずまいの中にあった。多くのアメリカ人が墓地を訪ね、その墓碑銘を確認する姿があった。岩間さんによれば墓碑に刻まれた名前で自分のルーツを求めているのだという。

  ボストン滞在3日目は岩間さんの運転するレンタカーでアメリカ発祥の地とも言えるプリマスへのドライブだった。ここの港には移民する清教徒たちを乗せてきた「メイフラワー号」を複製した船があり、観光の名所となっていた。その船の見学をした。移民の人たちがイギリスを旅立ったのは1620年9月であり、上陸したのは12月21日だったという。全長わずか27.5メートルの小さな船だった。船の中では当時の移民者たちの衣類を着た人たちが、船内での生活を再現していた。船のデッキを歩いた。わずか12歩で終わった。狭い船内で過ごした102人の清教徒たち。そして乗組員は25人から30人もいたといい、航海はどんなに厳しいものだったろうと想像した。調べてみると航海中に乗員1人と船客1人が亡くなったとの記録があるという。
  ボストンの商店街の飾り。センスが楽しめる。   ウインドーショップを楽しむアメリカの若者たち。

  メイフラワー号の見学の後は独立戦争の舞台となったレキシントンを訪ね、農民兵のミニットマンの銅像のある古い集落を歩いた。白いペンキを塗った住宅があった。当時のそのままの家だというが、古さを感じさせないお洒落で素敵な住宅があちこちにあった。住宅の前では当時のいわば18世紀の服装をした人たちが表に立って観光客の求めに応じて記念写真に収まるサービスをしていた。笛を手にした男性の側に妻が行くと、男性は精いっぱいの笑顔で「オーケー。オーケー」と記念写真に応じた。アメリカ人らしい鷹揚で陽気な笑顔だった。

  岩間さんはさらにケネディ記念館などを案内し、ボストン滞在3日間の日程をこなして下さった。その日の夕食はラーメンを食べた。ボストンというアメリカの古都で日本のラーメンを食べられるというのもおかしかったが、小さな店内は満員であり、味も上々だった。ボストンではエキゾチックなレストランでイタリア料理も味わった。そしてラーメンである。2年前のアメリカ西海岸の旅でもサンフランシスコでは和食のレストランで、ラスベガスではお昼にラーメンを食べ、ロスアンジェルスでは寿司屋で夜を過ごした。アメリカの都市ではすっかり日本料理が根付いているのを体験した。