こちら編集室「冬の終焉へ」(2月17日)

  相変わらず雪との格闘が続いている。朝は小犬のパピーの叫び声で目覚めるが、ベッドから起き出して着替えする前に行動するのは玄関を開けて表の「雪見」である。雪がいくら降ったのか、除雪車が走ったのか確認するためだ。雪寄せが日課のようになったが、それをしなくてもいい日は「ああ。助かった」と胸をなでおろす。逆にドサッと玄関前に雪が置かれているのを見ると「ああ。今日も雪寄せか」とウンザリだ。寝ている妻も自分が起き出して「雪見」に行ったのに気づくと「あなた。雪はどうだった?」とまだ眠そうな声で聞く。「ああ。またやらなければ」。自分の声には諦めとためらいがこもるが、妻の場合は「よし!。起きてやるか」と元気だ。

  小犬のパピーはその間、狭いケージでピョン、ピョン跳ねながら「ワン、ワン(早く出してよ)」と叫び、悪戯っ子のような丸い瞳を輝かす。急いで着替え、防寒着をはおって表に出る。立春は過ぎたが、午前5時半はまだ闇だ。近所では既に流雪溝のふたを開け、雪寄せが始まっている。その姿が夜の闇の底に切り絵のように浮かぶ。

  雪寄せの前に小犬のパピーの散歩を済ませたい。懐中電灯で白い道を照らしながら、滑って転倒しないよう慎重に歩く。空を見上げると夜空にはキラキラと数えきれないほどの星たちが輝いている。冬の夜は星がきれいだ。寒さは辛いが、澄みきった夜空に輝く星たちの音のない〃光りのコンチェルト〃は幻想的で美しい。

  このごろ、気になっているものがあった。ご飯を飲み込もうとするとのど奥に食べ物がつっかえるような感じがする。冷たいビールを飲むとやはりのどの奥にしみるものがあった。熱いうどんやラーメンを口にしてもその熱さがのどにしみた。そして声がかすれるようにもなった。

  2週間ほど前だった。いつもの薬をもらいに行ったら事務の女の人から「伊藤さん。先生からそろそろ胃カメラの検査するよう言われてます」と忠告を受けた。そうだった。昨年10月にアメリカへ旅行する前に胃カメラの診察を受けた時、「食道に気になるものがあるから旅行から帰ったらもう一度、検査したい」と先生に言われていた。気にはなっていたが、そのままにしておいた。

  アメリカから帰って既に4カ月近くなり、その間、胃の薬だけはもらいに通院していたが、胃カメラの診察は受けてなかった。それを主治医として気にしてくれていたのだ。ありがたいと思った。そして今月4日にその先生とお会いしたら「伊藤さん。近いうちにもう一度、カメラの検査を受けて下さい」と催促を受けた。

  おかしなものでなぜかその日から食べ物のつかえる感じがさらに強くなった。ビールを飲んでもその冷たさがのどにしみる。声のかすれもひどくなった。自分は母譲りの性格で物事を悪い方へ悪い方へと考える癖がある。医学は全くの素人なのに「食道がんかもしれない」と本だけの知識で、勝手に自己診断した。

  9日の胃カメラの診察を受けるまでの4日間、憂鬱な日々を過ごした。「食道がんならダメかもしれない」と思った。しかし、強がりかもしれないが死は余り恐れなかった。ただ小さな体で毎朝、一生懸命雪寄せをしている妻がもし一人になったらどうなるのかとそれだけが悲しかった。

  腱鞘(けんしょう)炎とかでビン入りのジャムなどの金属製のふたも開けれない妻。自分が居なくなったらパンにジャムを付けて食べるのも出来なくなってしまう。風呂場の脱衣室に置いている温風ヒーターへの灯油を入れるのはいつも自分の役目だ。それほど重い灯油タンクではないが、もしも自分が居なくなったらそのタンクへ灯油を注いでくれる人はいるだろうかとも考えた。

  冬。自分がいなくなったらこの寒い朝に小犬のパピーの散歩も妻がやらなければならない。あの小さな体で大丈夫だろうか。いや、雪道で滑って転倒したらどうなるだろうか。様々な心配が交錯し、不安が募った。夫婦として過ごしたこの30年余。妻はいつも自分の保護者だった。

  食べ方を注意し、行儀の悪さを注意した。朝。ネクタイの選び方にも口出しし、寒くなると下着の一枚一枚に配慮し、選んで着せてくれた。背広を買う時も、コートを買う時もセーターを買う時もいつも付き添った。家を出る時は必ず「マア。気をつけてよ」と声をかけるのを忘れなかった。酒の飲み過ぎには注意しながらも、酒が無くなれば黙って買っておき、ビールも箱が空になると店に注文しておいた。本当に良く気がつくし、保護者のようにいつも寄り添っていた。

  「胃カメラの検査を受けることにした」。そうひと言告げて9日朝、家を出ようとしたら、妻は思い詰めたような顔で「あなた。検査が終わったら必ず電話してよ」と言った。そして下山胃腸科内科医院の診察を受けた。

  胃カメラの検査はこれまで何度か受けており慣れたつもりだがやはり辛い。ましてや今回は診察も慎重を要したのか、時間がこれまで以上に長かった気がする。そして検査の結果、先生は映像を見せながら「逆流性食道炎ですね」と診察を下した。胃液の逆流で食道がただれているのが自分の目にも分かった。でも「悪い病気でないから安心して下さい」との先生の言葉にホッとした。

  そしてこれまでとは別な薬を処方された。妻には直ぐに電話で知らせた。「そう。悪い病気ではなかったんだ。良かったね。でも先生、お酒はしばらく休むように言わなかった?」と電話口ではしゃいだ。「いや。酒のことは何にも言わなかったよ」。「あら。おかしい。酒は飲まれないはずよ。先生、その事を言うの忘れたんじゃないの。先生に確かめて……」と妻は笑った。「いや。先生は俺に酒を止めろと言っても暖簾(のれん)に腕押しで、言ってもしょうがないと思ってるんだよ」。

  短い時間だったが、電話での酒のやり取りが楽しかった。あれから1週間が過ぎた。どうやら雪も峠を越したようで、この1週間、雪寄せはほとんどなかった。気温も上がり、雪解けが急激に進んでいる。春の足音が近づいてきた。辛かった冬もやっと終焉を迎えようとしているようだ。