朝、目覚めてカーテンを開けた瞬間、目に飛び込んで来るのは一面の緑だ。川港親水公園の木々の葉っぱが萌え、鮮やかな新緑となっている。優しくて、心をいやす色だなと思う。今、木々や草花は一年のうちでもっとも勢いづく季節なのだろう。小さかった若葉は大きくなって、一人前の〃葉っぱ〃になったし、横手川の堤防を歩くと野草が腰の高さにまで伸びた。堤防は今、野草たちの宿となり、語らいの場となっている。そしてオオヨシキリの愛の巣にもなっているようだ。
小犬のパピーを連れて歩くとあちこちから「ギョギョシ、ギョギョシ、ケケケッ」とオオヨシキリの叫びが賑やかに聞こえて来る。その鳴き声のかしましさは、まとまりのない合唱を聞かされているようだが、それでいて懐かしい郷愁を誘い、楽しくさせる。オオヨシキリの鳴き声は休み時間に入った小学校の廊下を歩いているような賑やかさだ。
堤防はとにかく野草たちが成長し、オオヨシキリの生活の場となった。ムラサキツメクサ、イタドリ、スイバ、イヌタデなど野草独特の個性的な姿が目に入る。そうした野草の群れに混じってマーガレットが可憐な白さで咲き出した。マーガレットは白い制服をまとった夏場の女子高生のようなまぶしさで可愛い。朝は妻と小犬のパピーを伴っての散歩、夕方はパピーを連れての散歩が続いている。そうした中、目にするマーガレットの白さがとても清楚だ。
それにしても散歩の途中、子ども達と出会っても声さえかけられない悲しい世の中になったものだと思う。藤里町では畠山彩香ちゃんの水死事故に続いて、米山豪憲君の殺害事件も起きた。二人の幼い命が奪われた事故と事件が一つの糸で結ばれているのかどうかは分からないが、秋田でもこうした子どもが犠牲になるような事件が起きるとは夢にも想わなかった。
取材で走っていると、小学校の近くでは「子ども安全パトロール」のステッカーを貼った車が走り、運転する人の目は警戒心で強張っている。そして下校する子ども達を親達が迎えに行き、一緒に帰っている光景も目にする。親と子が並んで帰る様子はほほえましいが、常に親の保護の下にいなければならない子どもたちの将来を思うと、果たして自立心が養われるだろうかと不安だ。
30日、大仙市役所で「安心・安全アカデミー」講座の開講式があったが、主催者のあいさつの中には「これまでは知らない人に声を掛けられたら危ないと思えと注意しなければいけなかったが、藤里町の事件以来、知っている人に声をかけられても子どもたちは警戒しなければならない悲しい世の中になった」と嘆く声が聞かれた。疑心暗鬼の時代となってしまったのだ。
昨日も小犬を連れて川港親水公園を散歩していたら、下校中の女子中学生と出会った。いつもなら「コンニチワ」と声をかけてくれる中学生だったが、その日はなぜかうつむいたままだった。こちらから「お帰り」と声を掛けたかったが、それさえ出来なかった。声をかけるだけで「変なオジサン」に見られそうで不安なのだ。
しかし、子どもたちから遠ざかってばかりはいられない。大人たちが子どもたちとふれ合うのを避けたら、それこそ完全に信頼関係を失う。声を掛けるとか掛けないとかではなく、もっと自然に温かい眼差しで子どもたちを遠くから見守りたい。そして子どもたちの方から自然に「コンニチワ」と言ってもらえたら、「ああ。お帰り」と言葉を返したい。
藤里町の事件がどのような結果になるかは分からないが、孟子がいう人の本性は善であるという「性善説」を信じたい。例え、事件が解決しても子どもを亡くした家族の心の傷はいやされないと思うが、子どもたちがもっと安心して暮らせる時代はきっと来る。普通に声を掛け、笑顔を交わせる日を取り戻さなければいけない。
夕方、小犬の散歩を終えて帰宅するとわが家の玄関前の通路は満開となったオダマキと忘れな草が迎えてくれる。登下校する子どもたちは無心に咲く花に似ている。その子どもたちが安心して安全に暮らせる社会を何としても取り戻さなければならない。新緑の爽やかな季節を悲しい話で終えたくない。藤里町の事件は自分たちが信州の旅で泊まった岐阜県の中津川温泉のホテルで目にした地元紙でも一面のトップを飾って報じられていた。その記事を読みながら、どうかもう2度と子どもの命がこのように無惨に奪われるということはないようにと祈った。