木々の緑が深まったせいか、横手川の堤防から眺める東山はこのごろ、水彩画のような淡い色彩で優しい。夕方、東山が見える日は嬉しい。子どものころから親しんだ遠くの山だが、雲に覆われて見えない日もある。そうした時は小犬のパピーと堤防を歩いていても寂しいし、何かを失ったような喪失感に陥る。東山は心の支えであり、悲しみも喜びも託せる憧れの山だ。青いインクを水で解かしたような淡い色彩となった東山は今、優しくて美しい。
朝の散歩も行きは東山を眺めてだ。朝もやに霞んだ山の眺めもいい。まるで屏風絵のような感じで山は横臥し、自分たちを迎える。その山を眺めながら鳥のように空を自由に飛び、ニッコウキスゲが一面に咲くという東山の山頂を歩いてみたいという夢がある。写真で何度か見たことのあるが、その美しい山の花畑を歩いてみたい。そう思う。
朝の散歩を終えてから最近の自分の役目は鉢植えの草花への水やりだ。以前は夕方に水を与えていたが、ナメクジの発生の元になると妻の発案で水は朝にすることになった。
花を植える楽しみを知った妻にとってナメクジは許せない敵になったようで、昨年の今ごろは毎晩、箸と塩と紙、それに懐中電灯を手にナメクジ退治のため庭に出た。ナメクジは軟らかい花の葉っぱから根まで食べるのが好きなようで、これまで何度か全滅させられた。このため昨年は根気よく、ナメクジ退治をした。その効果があってか今年は余り見ることがない。
そして気がついたのは花のプランターに夜、水を与えることは一晩中、ナメクジが生息しやすい湿気のある環境にしてしまうことだということらしい。だから「夕方の水撒きは止めよう」となった。
散歩を終えて裏庭に回ると狭い庭には今、「都忘れ」の花がひっそりと咲いている。紫の野菊のようなこの花は大好きだ。何と言おうか。花の姿に優しさと悲しさが込められている。そんな感じがする。それに「都忘れ」という名前がいい。昔、佐渡島に流刑になった順徳帝が、この花を愛でることで都恋しさを忘れることができたとの由来もいい。
水を与えるのは「サギ草」や「アサガオ」、「ラベンダー」、「山ぶどう」、それにもう花も終わったが「チューリップ」を入れたプランターなどだ。妻は表の道路沿いに置いたプランターの花にジョウロで水をやり、自分は裏庭の草花と樹木への散水だ。
水を与えながら「都忘れ」の花を見ていると思い出す人がいる。今の家を新築する時に依頼した設計士の下で助手として働いていた女の人だ。何度も打ち合わせのため、事務所を訪れているうち、親しくなった。ある朝、何かの都合で叱られたとかで涙顔だった。
女の人の涙を見るのは辛い。どう言葉をかけてやったらいいのか分からず、「あのね。人は星の子なんだって。遠い、本当に遠い昔、星が爆発して散り、その元素が集まって生まれたのが地球で、さらにその星の元素から生命が生まれ、人になったんだ。だから人間は星から生まれたんだ。元気を出そうよ」と声をかけた。
その当時、カール・セガンの「コスモス(宇宙)」やスティーヴン・ホーキングの「最新宇宙論」を読んでいて、人間は「星の子」だということを知った。科学者がそう言うのだから嬉しかった。そのロマンを伝え、少しでも元気になってもらえたらと、その人に話した。
大相撲が好きとかで、相撲が始まると自分の家の茶の間を桟敷に、テレビを観ながら好きな関取に声援を送っているという気丈な人だった。「人は星の子なんだ」という話しにジッと耳を傾けていたその人は「伊藤さん。ありがとう」と美しい笑顔を見せ、ある日の夕方、まだ建築中のわが家を訪れ、「これ。ピンク色の花が咲く『都忘れ』なんです。庭に植えて下さい」と届けてくれた。
妻も珍しいものをと喜んだが、まだ建築中のあわただしさ、そして庭師が入って庭造りを始めた最中にそのピンク色の「都忘れ」の花の苗はどこかへ失ってしまった。妻は悲しがり、今でも時々、思い出したように悔しがる。
綺麗な人だったから、設計士さんの下で働いていた当時は何度かブライダルショーで花嫁姿のモデルにもなった人だった。都忘れのような寂しさではなく、白いユリの花のような清楚さを持っていた人だったなと思い出す。都忘れは忘れていた美しい思い出を運んで来る。梅雨空に似合う花だと思う。