仕事柄、完全に休める土曜、日曜は少ないが、「週末だけは解放され、ユックリしたいな」と思う気持ちが日増しに強くなった。何をするわけでもない。ただ、自分だけの自由な時間がほしい。小犬のパピーと妻との小さな家庭だが、その小さな家庭だけで過ごせる時間を大切にしたい。年を取るということはこうしたことかもしれない。自分の時間と家庭を大事にしたくなるものだ。
そう思いながら朝の散歩を続け、休めた日は横手市などへドライブし、美味しいそば屋さんやラーメン屋さんを訪ねてはお昼を楽しんでいる。朝の散歩で驚くのは田んぼの青さだ。5月に苗を植えたころはまだ弱々しく、風が吹くと苗は糸のように左右に揺れたが、今はたくましく成長し、しっかりと根を付けた感じだ。
横手市へドライブに行くと大型店に入って何気なく眺め、憧れているのがある。それは楽器コーナーに展示されているドラムのセットだ。それを見ていて「ほしいナ」と思う自分に呆れている。触ったことも、叩いたこともないドラムを買い求めてもどうしようもないのだが、心のどこかには「これを自由に叩けたら」という悲しい憧憬がある。
年を取るということはこうした、子どもじみた自分のかけらをどこかに見つけ、戸惑うことなのかもしれない。時々、訪れてはドラムの前にたたずむ自分の姿を眺める女性店員の不思議そうな目を感じることがある。
高校生のころだった。カルメン・マキさんという歌手が「時には母の
ない子のように だまって海を みつめていたい」と歌ったことがある。「時には母の
ない子のように ひとりで旅に 出てみたい」と切ない声で歌ったのを覚えている。そして「だけど心は
すぐかわる 母のない子に なったなら だれにも愛を
話せない」と、〃なってみたい〃という希望と、実際にそうなった時の悲しさを見つめた歌だった。
自分も時々、放浪の俳人と言われた「山頭火」のように孤独な旅人になってみたいと思う。山頭火は家を捨て、妻子も捨て、出家をし、無一物の乞食となって北は岩手県の平泉や山形県の酒田、鶴岡を歩き、東京、静岡、京都、山口、そして九州を行脚し、1940年(昭和15年)に58歳の生涯を閉じている。
「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたやうな一生だった」と山頭火は晩年の日記に書いているという(村上護「放浪の俳人山頭火」から)。
種田山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」の句を目にしたのは本屋でだった。高校生の時だった。どうしてこうも分かりやすく、簡潔で美しい言葉を紡ぎ出せるものだろうと電撃的なショックを受けた。「青い山」は直ぐ、奥羽山脈の「東山」のイメージと重なり、「分け入っても分け入っても」の言葉の響きに山道を歩く呻吟と孤独を感じ、山頭火は大好きな歌人の一人となった。その山頭火のようにブラリ、ブラリと全国を歩けたらと憧れるが、カルメン・マキさんのように「一人になったら誰にも喜びも悲しみも話せない」とためらう。
山頭火は1922年(昭和11年)4月、東京を旅立つ時、「花が華になる東京よさようなら」と素敵な言葉で表現し、長野県の峠道では「行き暮れてなんとここらの水のうまさは」と紡ぎ出している。そして「あるけばかっこういそげばかっこう」の言葉のリズム感の美しさにはには舌を巻く。新潟では「青葉わけゆく良寛さまも行かしたろ」と名僧をしのび、「荒海へ脚投げだして旅のあとさき」と旅の実感を語る。
愛媛県松山では「おちついて死ねそうな草萌ゆる」とうたい、故郷の山口県に戻っては「うまれた家はあとかたもないほうたる」と悲しみ、「曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ」と諦観している。
九州に渡った高千穂で「分け入っても分け入っても青い山」を残し、その山を超えた宮崎県高岡では「このまま死んでしまふかも知れない土に寝る」と人生をわびしみ、「年とれば故郷こひしいつくつくぼうし」と故郷に恋いこがれる。
悲しいけど、虚しいけど美しい。それが山頭火の言葉であり、詩である。ドラムを叩いてみたいと憧れ、ピアノが弾けたらと夢想し、山頭火のようなさすらいの旅に夢を追い、「時には母のない子のように」と悲劇の主人公に憧れる子どものような自分を見つめ、戸惑っている。今日は七夕。星は見られそうもない空だ。