朝の目覚めは5時と言うのが、すっかり習慣となってしまった。朝と言っても11月のこの季節、窓の外はまだ真っ暗である。それでも居間の温風ヒーターの点火は5時に予約しているから、温まった空気が寝室にも流れ込み、寒さを感じることなくベッドから出られる。薪ストーブの世話になっていた子どものころ、冬の朝の目覚めは本当に辛かった。眠っている時は気づかないが、すきま風がスー、スーと部屋から部屋を走り、吹雪のひどい時は窓ガラスの隙間から粉雪が飛び込んで、枕元が真っ白になっていたこともある。
そして朝を迎えても寒さで、布団の中でひざ小僧を抱きながらグズグズしていると台所から「マァ。起きれよ。早く起きねば学校サ遅れるよ」と母の呼ぶ声が耳に響いた。「学校サ遅れるよ」は恐怖だった。その声に急かされ下着のまま布団から飛び出し、ズボン、セーターを手に薪ストーブが燃え盛っている居間に脱兎のごとく駆けつけたものだった。
「寒い。さむい」。悲鳴をあげながら、薪ストーブの前に陣取り、ズボンをはき、セーターを被って暖を取ったのが思い出される。あのころは本当に寒かった。それだけに薪ストーブのある部屋に飛び込むと天国だった。
15日朝、東山に雪が降り出し、いよいよ冬を迎えた。子どものころ親しんだ薪ストーブのジリジリとした熱さ、粉雪が飛び込んでくる氷のような部屋の冷たさ、しべ布団と呼ばれたワラを敷きつめた布団の上で飛び跳ね、父に叱られた夜、湯たんぽを抱いて潜った時の布団の中の温かさ。冬にはいろんな思い出があり、懐かしい。そして母の「早く起きねば学校サ遅れるよ」の声が遠い思い出となってよみがえる。
学校。買ってもらったばかりのランドセルを背負う練習を冬の間に何度も繰り返し、雪解けの春を迎え、初めて入った小学校への期待は、夏休みを迎えるころになると楽しさよりも、辛い場へと変わった。集団生活に馴染めない自分には学校は、居心地の良いものではなかった。
勉強の退屈さ、そして休み時間を利用しての教室での遊び、昼休み時間の体育館での遊びも、それほど楽しいものではなかった。しかし、クラスの仲間たちと同じ空気を吸い、同じ時間と流れを共有しないと一人だけ浮き上がってしまい、はじき出されるような不安があったから、ただ黙ってその中の一員となっていた。
当然のようにイジメもあったし、嫌がらせもあって学校は楽しい場ではなかった。それでも行かなければいけないと思っていたし、父も母も学校だけは絶対的な場だと決めつけていた。だから、学校に遅れるということは一大事だった。勉強は楽しいものではなかったが、国語の時間に先生から教わった漢字5個のうち、2つでも3つでも書き方を覚えると喜びはあった。「九九」を繰り返し、繰り返し、暗記させられ、算数の計算が出来るようになった時の嬉しさも忘れられない。
教科書に描かれたキツネの面を被って神社で遊ぶ子どもたちの姿を目にし「どうして自分たちの神社にはこうした祭りがないのだろう。キツネの面を被って遊んでみたいな」とうらやましがったり、音楽室で「たき火」の歌を習った時、「冬になっても雪が降らない所もあるんだ」と自然の不公平さに口をとがめたこともあった。
「夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘がなる」の歌を習って、母に連れられてお参りしたお寺にはそうした鐘もなかったため、鐘のあるお寺に行ってみたいと憧れたこともあった。「海は荒海 向こうは佐渡よ すずめなけなけ もう日は暮れた みんな呼べ呼べ お星さまでたぞ」の歌を教えられ、海へ憧れ、歌のメロディーの美しさに感動し、この歌を一生覚えようと決意したこともあった。
このごろ学校でのいじめで子どもたちが自ら生命を断ってしまう余りに痛ましい事件が相次ぐ。一方では大仙市のように母親が幼いわが子を虐待した挙げ句、交際相手の男と共謀して殺害してしまうという身勝手で、悲惨な事件も起きる。どこかが狂い始めたとしか思えない。
自分も学校では辛い思いも味わった。しかし、辛くても学校には学ぶことで得られる喜びもあった。太陽を囲んで水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星といった惑星があるんだという広大な宇宙の話。「人間は戦争を通じて飛行機をつくり、原子爆弾もつくったが、隣の月にさえまだ行けないでいる」と当時の先生の熱弁も懐かしい。そして心を和ませ、いやされる唱歌の数々を教えられ、それが今、貴重な財産となり、忘れられない思い出として残っている。
学校でのイジメ、そして今度の大仙市での母による子殺し。そうした「心の闇」を照らし、導いてくれる光りは幼いころに習った唱歌の中に潜んでいるような気がする。「雨降りお月さん 雲の蔭 お嫁に行とくきゃ 誰とゆく 一人で傘(からかさ)さしてゆく」。唱歌には優しさや温もりがこもっている。