こちら編集室「卒業の春」(3月2日)

  3月に入った。暖冬のまま2月も終わった。田んぼの雪解けも進み、風景が一気に春らしくなった。そのせいか朝はダイナミックに明ける。目覚めて外に出ると東山の空は鮮やかな朱色に染まり、屏風絵のようだ。しかし、その紅の空もあっけなく薄れ、山際から光彩を放って、まぶしいばかりの太陽が昇ってくる。太陽が昇る時の荘厳さは神が天と地を創造し、「光あれ」と命じ、昼と夜を分け、海に生きるもの、水に群がるもの、そして大空を飛ぶ鳥を生み、地に生きるものと男と女を創造された「天地創造」の奇跡のドラマを見る思いだ。グリーグの「ペール・ギュント組曲」の朝、そのものだ。

  わが家の風呂の脱衣室には妻の要望で、音楽が聴けるようになっている。ラジオが好きな妻が、脱衣室で洗濯などの仕事をしながら音楽やお喋りを聴きたいと電気屋さんに相談してスピーカーを取り付けてもらった。

  だから風呂に入りながらでもCDの音楽を楽しめるし、テレビの音も、FM音楽も楽しめる。そのFMからその日の朝はムソルグスキーのピアノ組曲「展覧会の絵」が流れた。クラシック音楽に馴染み始めた高校時代、「展覧会の絵」という曲名に神秘的な憧れを抱いて買い求めたのは、ピアノ曲ではなくカラヤンが指揮するオーケストラ演奏のレコードだった。

  レコードのジャケットに書かれた解説で前奏曲、間奏曲として繰り返される重厚なメロディは絵を鑑賞する作曲者のムソルグスキー自身の歩く姿だと知った。「小人」の絵を前にした時の幻想的なメロディ、「古い城」の絵を鑑賞した時の美しい楽章、牛車がぬかるみの道を進む光景を描いた重々しいリズムなど、音楽の持つ表現力のすごさと描写力の見事さに心躍らせたものだった。

  あのころ、高校を卒業したらレコード店に就職し、音楽の専門的な知識を磨き、クラシックレコードを買い求めるお客さんがいたら、この音楽ならこの指揮者のが、このピアノ曲ならこのピアニスト、バイオリンならこの人とアドバイスしながら売ってみたいと憧れたものだった。そして音楽の解説者になれたならと音符さえ読めないのに大それた夢を求めた。夢は夢で終わったが、高校時代はどちらかというと将来への期待よりも不安が多かった。

  それは選んだ学科が機械科であり、実習で鍛冶屋のような作業をしたり、旋盤などの精密機械をいじるのに自分の不器用さでは付いていけないのを知ったからだ。これでは就職したって仕事をやれないと自分の力の限界に暗澹とした。大学に進学して別な勉強をしたいとかすかな希望も抱いたが、父は雨の日も風の日も行商に出かけるという〃櫛風沐雨〃の日々であり、母は縫い物というささやかな家業で生活している姿を見るとそれ以上の望みは口にすることは出来なかった。

  結局、無為徒食な高校3年間を送り、夢もなく秋田市の鉄工所に就職した。しかし、人間関係もあったが、暗い工場の片隅で鋳造品を毎日、大型のハンマーで割る単純な作業に挫折し、数カ月で退職した。その時も音楽を学問的に学び、レコード店で働きたいと思ったが、現実は学ぶよりも仕事を見つけなければ食えないということだった。

  下宿生活だったので、その支払いもあって、夢中で探してたどり着いたのが家電製品などを販売するセールスマンだった。これもノルマがあったため、売れないと毎日の食費にさえ事欠けた。このため下宿もやめて勤め先の営業所の空き室を借り、自炊生活となった。朝昼夕とも食べれるものは安いパンだけだった。しかも、そのパンさえ買えない日もあった。空腹のまま夏を過ごし、秋をやり通し、冬を迎えた。栄養状態も最悪となり、カゼに罹ったらそのまま見知らぬ家の中で倒れ、緊急入院となった。

  秋田市に在住していた姉が知らせを受けてその翌日、病院に駆けつけた。「マア。どうしたの?」と酸素吸入器を取り付けられた自分の顔を心配そうに見つめた。その声の優しさに涙が出て、姉の手を握って声を出して泣いた。あの時の涙は今も忘れられない。父も母も駆けつけ、「マア。もういい。戻れ。家さ帰って休め」と慰め、それから半年ほど横手市の病院で入院生活した。

  自分にとって高校を卒業した春から夏、秋、そして冬は将来に何ら希望も持てず、孤独で寂しいものだった。1日、大曲高校の卒業式を取材した。名前を呼ばれ「ハイッ、ハイッ」と返事する卒業生の清々しい声。「卒業の歌」をみんなで歌いながら涙を流す生徒たち。自分にとって高校卒業は試練だったが、その辛さや苦しさがあったから今があると思う。

  「苦しい時、難儀な時こそ宝の山の上にいるのだと思って下さい」とはなむけの言葉を述べた加藤哲夫校長のあいさつが印象に残った。卒業の春を迎えた高校生の皆さん。これから素敵な人生のドラマが始まるかもしれませんが、どうぞ耐える力も養って下さい。