こちら編集室「鎌倉への誘い」(3月16日・金)

  雪に始まり、雪で終わりそうな1週間だった。1、2月は過去に例のないほどの暖かい冬を記録し、スキー場からは悲鳴も聞かれた。昨年の豪雪に〃こりごり〃したわが家では今年の冬に備え、屋根の雪をボイラーで温めた「不凍液」で解かすという大がかりな装置を取り付けた。苦しい出費だったが、いずれ屋根から落ちた雪を運べなくなることは間違いないと決断して、融雪装置の導入に踏み切った。

  そして初めて迎えた冬である。灯油代が心配だったが、屋根に積もった雪を見て、ボイラーにスイッチを入れたのは1回だけで済んだ。除雪車が走って玄関前から車庫前、そしてお隣の90歳をこえる一人暮らしのおばあさん宅の玄関前の雪寄せを妻と二人でしたのは数回程度だった。雪との格闘があっけないまま1月が過ぎ、2月が旅立った。

  そして迎えた3月は春だった。ところが冬は何とか帳尻を合わせたいとばかりに啓蟄の6日過ぎから荒れ出した。毎日、雪である。朝の雪寄せ作業も強いられている。しかし、やはり春である。地熱も高まっているのだろう。道路に積もった雪は会社に出かけるころには消える。

  「信州のソバを食べに行きませんか」と誘われて、初めて岐阜県や長野県を歩いたのは昨年の5月だった。島崎藤村の「夜明け前」の舞台となった馬籠や妻籠宿を歩いた時は感激で、眼が潤みっぱなしだった。その信州の旅を企画した美味しいソバを求めて県内外を歩く「暖(なん)の会」を主宰する安田勘二郎さんから、今度は「鎌倉のあじさい寺を歩いてみませんか」とのお誘いを受けた。

  企画では6月だという。鎌倉市を訪れたのは中学校の修学旅行以来である。印象に残っているのは鎌倉の大仏だけで、それを見上げてただ「すごい」と驚いたことしか覚えてない。そして江ノ島の水族館でイルカショーを楽しんだ。中学校の修学旅行は確か3泊4日で、そのうち1泊は列車内だった。あのころは東京といえば急行列車でも一日がかりだった。

  早朝に上野駅に着き、煤けた駅構内の広場で90人前後の自分たちは整列させられた。そしてバスに乗り込み、初めて東京の喧騒に触れた。無数の車が走り、無数の人が行き来した。ビルディングという田舎では見たこともない建物の大きさに目を見張り、列車内でほとんど徹夜で過ごしたための眠気も一気に覚めた。宿は東京に泊まり、それから鎌倉だったろうか。それとも東京に2泊しただろうか。

  和風で広い畳敷きの宿では枕投げをして遊んだことと、東京タワーに昇って夜の夜景を楽しみ、「東京ってスゴイ」と大都会のもたらすエネルギーに圧されっぱなしだったことしか覚えてない。そして鎌倉市に足を伸ばし、大仏を見上げた。

  また、印象に残っているのは大曲駅で乗った時は蒸気機関車だったのに深夜、確か福島駅だったろうか。そこで電車がSLに代わって引っ張り出したことだ。見たこともなかった電車が目の前にデンとあり、SLとは違った格好良さに目を見張った。

  中学校の修学旅行だったから、まだ14歳の2年生の時だったと思う。母は「東京はオッカネ所だから、絶対、一人になって歩くなよ」と何度も何度も繰り返したことも記憶にある。もらった小遣いはいくらだったろう。そうだ。持っていける金額は確か、学校で申し合わせたはずだった。そのお金を持って東京のデパートに入り、ウロウロキョロキョロとあちこちを巡り歩いて結局、自宅へのおみやげとして買い求めたのは缶入りの海苔だった。ほしいオモチャもあったが、お金を少しでも残そうと結局は何も買えずに帰った。

  初めての鎌倉からもう40年以上の歳月が流れている。中学、高校、そして社会人として生き続けてきた。無事に働き続けることができたのは幸せだったなと思う。会社は違ったが、先輩の記者として面倒を見てくれた方が自分と同じ年代に差しかかった時、大腸がんという不幸に見舞われた。

  その人は病床で「人生は同じことの繰り返しだ。春を迎え、夏、秋を迎え、そして冬を迎える。伊藤君にもお世話になったな。もう思い残すことはないよ」と寂しい笑顔を見せたものだった。鎌倉のあじさい寺「明月院」の参道には約2000株ものアジサイが植えられ、6月には一斉に咲くという。歴史の町・鎌倉市を歩き、大仏と再会し、一つひとつを思い出に刻みたい。これからはそうした旅を楽しみながら、春を迎え、夏を迎え、燃える秋を歩き、冬を過ごしたい。