こちら編集室「夏の午後」(8月3日)

   朝の散歩は続いている。弱々しかった苗は大きく成長し、稲穂が顔を出している。ケージの中で目覚めた小犬のパピーは「朝だよ。起きろよ」と叫び、散歩の催促をした。着替えて外に出た。まぶしいほど夏の朝が始まっていた。「今日はアタシがパピーを連れて行く」とリーダーを手にした妻。東山に向かっての散歩も帰りになると、天高く上りきった太陽は二人と一匹の小さな家族の長い影を地面に落とした。「これが我が家だね」と妻と並んで笑った。

  カナカナと杉林の奥からヒグラシの鳴き声が聞こえてくる。そのしみ入るようなセミの声を聞きたくて、小犬のパピーを連れた夕方の散歩コースを横手川の堤防へと変えた。川港親水公園の入口から堤防に沿って200メートルほどの杉林が続く。

  ヒグラシはその杉林の中で群生しているようだ。カナカナカナ、カナカナカナと悲しいほど美しく澄んだ鳴き声が遠く、近くから響いてくる。耳を澄ますと息も絶え絶えのような弱々しい声もあれば、命の炎を燃え尽くそうとばかりに絶唱する声もある。暗い地中で生まれ、地中で暮らすこと7年にも及び、ふ化して成虫となるとわずか1週間から2週間の命という。空を飛べる自由を得ても、残された時間は余りにも短い。その短い生命をカナカナカナと歌うことで終えようとしているのかと思うと悲しい。

  子どものころ、近くの雑木林に行ってかぶと虫やクワガタを採って来ると「また採ってきたのか」と笑っていた母も、セミだけは「土の中からやっと出てきても1週間しか生きれないからかわいそうだよ」と哀れんだ。手のひらの中で手足を擦るようにうごめいていたセミは手放すとミーッ、ミーッと命の叫びを残して飛んで行った。

  1日、梅雨の終わりも告げられ、暑い夏が来た。小犬のパピーは自分が自宅にいると守りてとして活躍したいと心に決めているのだろう。居間と寝室の間の板の間に寝転びながらも表に人の気配を感じるとムクッと立ち上がって走り出し、「ウーッ。ワンワン」と威嚇し、「人が来たよ」と知らせる。このごろは家で原稿を書くことが多いため、それに夢中になっていると玄関にお客さんが入ってきても知らないでいる。

  結局、パピーの行動で気づくのだが、その小犬の直感もただ道路を歩いている人にまで八つ当たり気味に吠えることがあって、来客の知らせにも当たり外れがある。このため狼少年ではないが、パピーが玄関に向かって大声で吠えても、こちらは知らない振りをして原稿に熱中していることがある。そう言う時に限ってパピーの呼びかけは当たっており、来客も困ってしまい玄関のチャイムを押して知らせる。「アッ。待たせてゴメンナサイ」と謝るばかりだ。

  こんなこともあって来客が来たことを知らせるパピーの行動が当たっていた時は「パピー。お客さんを教えてくれてありがとう」と褒めるのだが、それが嬉しいのだろう。懸命に玄関に神経を集中させ、また吠える。お客さんかと思ってテーブルから離れ、外を覗くと誰もいない。結局、通りすがりの人を見つけて吠えたようだ。「なんだ。パピー。間違ったじゃないの」。そう言うと可笑しくなるほどパピーは顔をそむける。可愛いものだ。

  退職して早4カ月目に入った。時間に縛られない隠居生活は気楽だが、反面、難しいのは自己コントロールだ。勤めていた時は時間まで出社し、毎日、何を取材するか、何を書くかで頭を悩ませ、その分、緊張感もあったが、それから解放された今は、気持ちの面だけでなく、体も楽な方へ楽な方へと求める。

  市や県からは広報資料が我が家にもファックスで送られてくるのだが、それに目を通すだけでは取材にならず、以前は関係部局に足を運んで予備知識を身につけたり、その会話を通じて取材ネタを見つけたものだ。そうした自ら話題を追って歩こうとする積極性をこのごろ失った。

  第一線を退いた以上、そうしたノンビリさに気持ちが負けるのも仕方あるまいとあきらめている。むしろユックリと流れる時間を大切にしたい。居間から見える小さな庭のモミジ、アオキ、キャラ、松、アジサイの葉の緑が真夏の太陽に照らされ、輝いている。アブラゼミも鳴き出した。8月3日午後1時過ぎ。青い空がいっぱいに広がっている。濡れ縁からの風が涼しい。こうした夏の午後を手に入れられたのを喜ぼう。